ホンダはいきなり日本じゃ無くて「世界獲り」を目指してしかも成功! 本田宗一郎氏のぶっとび列伝 (2/2ページ)

レース参戦の目的のひとつはブランディング

 そのタイミングで、ホンダは四輪でも世界ナンバーワンを目指すという思いを抱くようになる。まだ四輪の市販もはじめていない1961年の段階でF1マシンを入手、1962年からは極秘にF1プロジェクトをスタートさせている。

 実際にホンダがF1参戦を宣言したのは1964年1月のことだが、四輪事業に参入するのであれば世界を相手にしようという強い意志が感じられるエピソードだ。

 ちなみにホンダが初めて開発したF1マシンのコードネームは『RA270』というが、これは本田宗一郎氏によって目標とする出力が270馬力に定められたことに起因する。当時のF1は1.5Lエンジンの時代、リッターあたり180馬力のエンジンを開発するという、とてつもない目標が掲げられたのだった。

 結果として1965年の最終戦メキシコGPにおいてリッチー・ギンサーの駆るRA272がホンダにF1初優勝をもたらすことになる。

 そしてF1初優勝の記者会見において本田宗一郎氏が『勝っておごることなく、勝った原因を追求して、その技術を新車にもどしどし入れていきたい』と発言したことから、ホンダにとってモータースポーツは走る実験室であり、そこで得た知見が量産車にフィードバックされるというホンダ・ブランドの神話が生まれた。

 ただし、1954年のマン島TTレース出場宣言をあらためて読むと『レースの覇者は勿論、車が無事故で完走できればそれだけで優秀車として全世界に喧伝される』という一文がある。最初の段階からモータースポーツをブランディングとして活用しようという狙いもあったことは明らかだ。

 それが本田宗一郎氏の真意であったのかどうかは不明だが、モータースポーツで世界ナンバーワンとなることでブランドの価値を高め、それをフックに世界展開を果たすという考え方を、戦後の日本企業が持てたということ自体が大胆な発想であり驚きだ。

 実際、二輪・四輪のモータースポーツにおける活躍はホンダを世界企業へ押し上げる原動力となった。本田宗一郎氏の無謀ともいえるチャレンジが、ホンダを成長させたのは間違いない。


山本晋也 SHINYA YAMAMOTO

自動車コラムニスト

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