この記事をまとめると
・アウディの前身であるアウトユニオンがポルシェにレーシングカーの設計を依頼したのが出会い
・ポルシェ博士の孫であるピエヒ氏はポルシェ社からアウディ社に渡った技術者
・ピエヒ氏が作ったアウディ・クワトロスポーツのシステムをひっくり返すとポルシェ959になる
第2回 ポルシェとアウディの出会い
「ポルシェ伝説」の2回目連載は、ポルシェとアウディの関係の歴史についてリポートする。現在のポルシェは自動車を製造販売するポルシェAGという企業と、フォルクスワーゲングループの筆頭株主というポルシェ・ホールディングのふたつの顔がある。
メーカーとしてはポルシェはフォルクスワーゲングループの一員といえるが、そのフォルクスワーゲングループの実質的なオーナーはポルシェ家が支配している。この複雑な関係を理解するには、20世紀初頭まで遡る必要があるのだ。
20世紀は戦争で機械化が進んだ
20世紀という時代は機械工業化がふたつの戦争(第一次と第二次世界大戦)で機械化技術が革新したことで、自動車技術の進化に大きな影響を与えた。これは皮肉な事実があるが、我々クルマ好きは受け入れなければならないだろう。そのよき例が四輪駆動技術である。じつはここにもポルシェの存在が深く影響しているが、その話は後でリポートする。
時代背景として1914年に勃発した第一次世界大戦で欧州は大混乱に陥った。ドイツ、オーストリア、ロシア、イギリス、フランスなどの国が互いに戦ったわけで、それまで覇権を握っていたいくつかの帝国は崩壊した。自動車を生んだドイツは、敗戦国となり、多額な賠償金を課せられることになった。自動車技術の黎明期と戦争によって、自動車を作るさまざまな企業が生まれ、消え去った時代でもあった。
この混迷期にポルシェ博士(ポルシェ社の創業者であるフェルディナンド・ポルシェ)はドイツのダイムラー社でエンジンを研究開発し、その後はオーストリーにあるダイムラー社で働いていた。戦争が始まると、戦前から引き続きさまざまなエンジンを開発し、オーストリーの陸軍に貢献していたが、終戦間近には航空機エンジンも設計していた。
第一次世界大戦後の混乱期
1920年代のドイツ社会は混乱していた。まだこの時期にフォルクスワーゲンというクルマは生まれていない。当時のドイツでは、経済危機を乗り越えるために、ダイムラー社とベンツ社が合併しダイムラー・ベンツ社が設立された。また、ドイツに点在していた小中メーカーが生き残りをかけた苦しい時代を過ごしていた時期でもあった。
ポルシェ博士は1928年にダイムラー社を退社し、自分の才能を活かすため1931年に独立した。ダイムラー時代に馴染みがあったシュトゥットガルト市郊外のヴァイザッハにポルシェ設計事務所を開設し、自動車メーカーからの委託研究で凌いでいた。
当時、ダイムラー・ベンツ社に対抗するように、ドイツでは4つの中小メーカーが合併し、アウトウニオン(自動車組合)という自動車メーカーが1932年に誕生した。その4つとはヴァンダラー、DKW、ホルヒ、アウディの四社で、このときに4つの輪として、今のアウディのアイコンとなる「フォーリングス」のエンブレムがデザインされた。