アウディ・クワトロスポーツをひっくり返すとポルシェ959!? ポルシェとアウディの双子的関係【清水和夫ポルシェを語るVol.2】 (2/2ページ)

ポルシェ博士の孫が作り上げたアウディ・クワトロスポーツ

第二次世界大戦後のドイツの自動車産業

 アウトウニオン社はドイツが第二次世界大戦で敗戦国となると、ソビエト(ソ連)に工場を没収され、戦後復興が困難になったが、アウトウニオン復興の声もあり、1960年代になるとフォルクスワーゲンの傘下に収まりながら、NSUという中堅メーカーと合併した。

 その意味では4つの輪にNSUというもうひとつの輪が加わったのだが、じつはこのNSUというメーカーは日本でも馴染み深いロータリーエンジンを考案した企業だった。このエンジンはコンパクトでユニークなエンジンであったが、信頼性や生産性などの課題で取り扱いに苦慮していた。そこでNSUは日本のマツダにこの技術を売却し、後にマツダが実用化することでマツダのアイコン的コンテンツとなった。ちなみにロータリーエンジンはドイツでは考案者の名前に由来し、バンケルエンジンと呼ばれていた。

 そして、NSUアウトウニオンは1965年にアウディに社名を変えて再出発することになった。

ポルシェとアウディの出会い

 1934年、アウディの前身であるアウトウニオンはグランプリレース(今のF1の原型であるレース)で宿敵ダイムラー・ベンツを打ち負かすために、ポルシェに最高性能のレースカーの設計を依頼した。ポルシェが考えたのは世界初となるミッドシップ方式のPワーゲンだった。このプロジェクトが縁となり、ポルシェとアウディの協業が始まった。

 しかし、重要なことは同じ時期にヒトラーの依頼で、ドイツの国民車となるフォルクスワーゲン(VW=通称ビートル)の開発も進められていた。空冷水平対向エンジンをリヤに搭載するRR方式であるが、このプラットフォームは戦後も生き残り、ビートルの愛称で生産された。戦争を挟んで、ポルシェとフォルクスワーゲンとアウディの深い関係が始まったのである。

ポルシェ博士の孫であるピエヒ氏の登場

 フェルディナンド・ピエヒ氏は60年代にポルシェ社に就職し、水平対抗6気筒エンジンの開発に従事する。その後、ル・マン24時間プロジェクトに参画し、水平対向12気筒エンジンを作りあげた技術者だった。

 ピエヒ氏は70年代後半にポルシェ社からアウディ社に移籍するが、アウディをメルセデス・ベンツのライバルとするブランドに育てるために、1980年にクワトロという高速四輪駆動車を開発し、その性能を証明するために世界ラリー選手権に打って出た。それがアウディのクワトロスポーツであった。

 じつはこのパワートレインは前後ひっくり返して使うと、ポルシェ959に変身するというマジックを持っていた。この頃からポルシェとアウディは共同でスポーツ四輪駆動技術を研究するようになった。

 ポルシェはリヤエンジン・リヤ駆動のRRベース、アウディはフロントエンジン・フロントドライブのFFベースであるが、このふたつは、一見、似て非なるように思えるが、じつは二卵性双生児。見事にシステムの同一性を見出すことができるのだ。


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