大手8メーカーで最後発! ホンダの四輪自動車参入は「いわく付き法案」により「滑り込みセーフ」だった!? (2/2ページ)

特振法が成立していたらホンダ量産車はギリギリのタイミングだった

 あらためて振り返ると、トヨタが最初に四輪乗用車を出した1936年7月には「自動車製造事業法」という法律が施行されている。これは国産の自動車メーカーを生み出そうという国策に則ったものであり、同法によって許可会社に指定されると、国からの助成が受けられた。そして、同法によって最初に許可会社となったのがトヨタと日産である。

 同様に、戦後にも国産自動車産業を育てようという動きがあった。それが通産省による「国民車育成要綱」である。

 1955年に発表された国民車構想では「4人乗り・時速100km/h、15万円」という条件が提示され、そこを目標としたのが前述したスズライトであり、スバル360だった。結果的に、共通仕様としての国民車構想はとん挫したが、手頃な価格で十分な性能というコンセプトは、現在の軽自動車規格につながっている。

 さらに通産省は日本経済を成長させるために、「特定産業振興臨時措置法案(通称:特振法案)」を1961年に示す。特定産業とされたのは乗用車・特殊鋼・石油化学の3分野で、国内リソースを集中するために1963年までで自動車メーカーの新規参入を制限するといった意味を持つ法案だった。

 つまり、1963年までに四輪車の量産という実績を積み、自動車メーカーとしての既成事実を作らなければ四輪生産には参入することが不可能になるという意味だ。

 1961年の段階では、まだ四輪は研究段階にあったホンダにとって、この法案が成立してしまうことは認められないが、それでも実績を重ねていくしかない。紆余曲折ありホンダは、1962年秋に開催された第9回全日本自動車ショーにおいて、S360、S500、T360という3台の四輪車を出展することに成功する。

 結果的に、特振法は国会で成立することはなく廃案となった。その背景にはホンダの実績を積み重ねていく動きに加えて、本田宗一郎氏によるメディアキャンペーンなどが効いたとも言われている。

 もし「特振法」が成立していれば、ホンダが自動車メーカーとして認められるには“ギリギリのタイミング”でT360は出たことになる。こうしたさまざまな動きをもって「ホンダは滑り込みセーフで自動車メーカーになれた」という表現が使われることもある。

 いずれにしても、自動車大手8社においてホンダは最後発であり、「特振法」に関する動きがなければ、ホンダの四輪車が登場するのはもっと後のことになっていたかもしれないし、DOHCエンジンを積んだ軽トラが出ることもなかったかもしれない。


山本晋也 SHINYA YAMAMOTO

自動車コラムニスト

愛車
スズキ・エブリイバン(DA17V・4型)/ホンダCBR1000RR-R FIREBLADE SP(SC82)
趣味
モトブログを作ること
好きな有名人
菅麻貴子(作詞家)

新着情報