この記事をまとめると
■もともと二輪専業だったホンダは、のちに四輪車へ事業を拡げていった
■四輪車事業への参入を決断したホンダは「S360」と「T360」を公開
■スポーツカーと軽トラックを同時に披露した理由について解説する
開業前の鈴鹿サーキットでスポーツカーと軽トラックを披露!
モビリティリゾートモテギ(栃木県芳賀郡茂木町)にある、ホンダコレクションホール。ここに来ると、誰もがホンダの歴史を実車や実機を介して肌感覚で捉えることができる。
ホンダは二輪車で始まり、そして四輪車へ事業を拡げ、現在のようなグローバル企業へと成長していったという大きな流れがある。本田宗一郎氏の若き頃の経歴を紐解けば、四輪車事業の参入を積極的に進めたことも十分理解できる。
ホンダの資料によれば、ホンダが四輪車を初めて発売する1963年の5年前、1958年9月に当時の白子工場内の技術研究所・第3研究課が四輪試作車の作成を進めたという。
試作車のコードネームは、「XA170」。これは、国が1955年5月に公開した国民車構想を念頭に入れたものだった。国民車とは、戦後の日本でより多くの国民が日常生活の中で手軽に使えるクルマを想定したもの。具体的には、現在の軽自動車のことを指す。
その上で、ホンダの企業理念である「技術は人のために」という発想から、軽トラックを想定した試作車「XA120」を作成。また、二輪車でのレース経験に加えて、当時極秘裏に進んでいた日本初の本格的レーシングコース「鈴鹿サーキット」の開業も踏まえて、2シータースポーツカー「XA190」の開発も進んでいた。
こうしたなか、ホンダにとっては重大な決断を迫られる事態が起こる。1961年、当時の通商産業省は、日本の海外における産業競争力強化を推進するため、国が金融界や産業界を事実上とりまとめる形で産業育成を進めようという施策を考案し、具体的な動きに出た。自動車産業に対する基本方針を打ち出したのだ。
のちに、特定産業振興臨時措置法案(通称:特振法)として国会で審議されることになる(結局は廃案)。国は、当時乱立していた二輪車事業者や、徐々に生まれてきた四輪事業者に対して、国主導での国策として産業育成を試みようとしたのだ。
1961年の基本方針が表に出た時点で、二輪専業の事業者は四輪事業への新規参入が難しくなるのではないかという話が、産業界に広まった。そうしたなか、各種資料によれば、本田宗一郎氏は通商産業省に対して自由競争を主張すると同時に、四輪車事業への早期参入を決断することになる。
そこから、本田宗一郎氏の動きは極めて早かった。1962年6月、開業前の鈴鹿サーキットで行われた全国ホンダ会でスポーツカー「S360」と軽トラック「T360」を同時に披露した。
さらに同年10月の、第9回日本自動車ショー(東京モーターショーの前身)に、「S360」「S500」、そして「T360」を出展し、ホンダの四輪車事業参入を国内外に向けたアピールしたのだ。
それから60年経った、2022年。ホンダは電動化に向けて大きく舵を取ろうとしている。