この記事をまとめると
■2014年に100周年を迎えたマセラティは元々はレーシングカーメーカーだった
■1971年、スーパーカーにも数えられているマセラティ・ボーラを発表した
■当時、提携していたシトロエンからSMのメカニズムを流用していた
レーシングカーメーカーとして誕生したマセラティ
2014年に創立100周年という記念すべき節目を迎えたイタリアのマセラティ。
マセラティ家には7人の兄弟があり(長男から順に、カルロ、ベンド、アルフィエーリ、アルフィエーリ、マリオ、エットーレ、エスネスト、3男のアルフィエーリは生後間もなく死亡した)、長男のカルロは若くしてエンジニア、そしてレーシングドライバーとしての才能を発揮。フィアットなどを経て、ミラノのビアンキ社へと入社。さらに、ベントとアルフィエーリも同じミラノにあったイソッタ・フラスキーニ社へと入社したが、長男のカルロは不幸にも30歳という若さで亡くなっている。
それを機に、一時はイソッタ・フラスキーニの提案に応じてアルゼンチンへと渡ったマセラティ兄弟だったが(マリオは機械には興味を示さず画家への道を志した)、1913年イタリアへと帰国。翌1914年にボローニャのモンテヴェッキオに自らのガレージを設立。ここにマセラティの歴史は始まったのだった。
イタリア、ボローニャ市の紋章である、海神ネプチューンが持つトライデントをエンブレムとしたマセラティは、それから徹底してレーシングカー作りに集中した。もちろんその過程では、公道走行が可能なツーリングスポーツカーも生産されたが、その数は非常に少なく、またそのメカニズムもレーシングカーのそれをデチューンしたものがほとんどだった。マセラティは自動車メーカーというよりも、レーシングカーメーカーにほかならなかったのだ。
マセラティのレーシングカー作りは、結局1965年まで続くことになるが、すでに同社からは1957年のジュネーブ・ショーで大型の高級GT、「3500GT」のプロトタイプが発表されると同時に、将来的にはこれまでにレースシーンで培った技術をもとに、高性能車の商業生産を行うことが宣言されていた。その第一号車となったのはもちろん3500GTであり、これは1958年のデビュー。
さらに1959年には排気量を5リッターに拡大した「5000GT」も登場。ここから1970年代のスーパーカーブームでも話題となった、この「ボーラ」なども派生していくことになるわけだ。