プロレーサーからしても異常と思えるセンスと度胸
また、外から見ていて一目瞭然に常人とは思えない走りを示すレーサーも多くいた。
1987年に英国F3チャンピオンであったジョニー・ハーバート選手が、初めてマカオGPに挑戦してきたときのことだ。狭い市街地サーキットのマカオ山側コースでレイナードF3マシンをスライド走行させ、コーナーのアウト側ガードレールにタイヤの側面を擦らせてホイールから火花を散らしながら、まるでゴーカートのように走らせるドライビングスタイルを眼の当たりにしたとき、僕自身のドライビングにも大きなインパクトを与えてくれた。
彼の真似をしたらラップタイムが2秒近く速くなり注目を集めたのだが、そんな真似は常人には不可能だろう。
また、1991年にミハエル・シューマッハー氏が初めて日本の全日本F3000選手権に参戦したときのこと。レースの終盤5周ほどを彼の後ろに張り付いてオーバーテイクを狙っていたのだが、彼は初めてのマシン、初めてのコース、初めてのタイヤであったにもかかわらず、菅生サーキットでもっとも難しい高速の最終コーナーで4輪をドリフトさせ、ステアリングを左右に必死にコントロールしながら、バックミラーで僕を確認してブロック走行に徹していた。
当時のスリックタイヤはハイグリップでスライド走行には合わない特性だった。他のレーサーは皆スライドを極力抑え最大グリップを発揮するよう丁寧に走らせていたのだが、シューマッハー氏はテールを大きくスライドさせて走っていた。僕はそれを見てすぐにタイヤが摩耗して道を空けるだろうと読んだのだが、スライド量が大きくなっても彼は最後までコントロールし続け、結果2位の表彰台に立った。
3位で彼の横に立った僕に、「激しいステアリングさばきで肘をコクピットにぶつけて痛めた」と言っていた。だから僕は「次は肘にサポーターをつけるといいよ」とアドバイスしたのを覚えている。シューマッハー氏に「次戦からは君をマークするよ」と言われたのは、今となっては最高の褒め言葉だったと自認している。
超高速の難コーナーとして知られる鈴鹿の130Rコーナー。今でこそ大きく改修され安全性は高まったが、1990年代中頃まではとにかく恐ろしいコーナーだった。ブラインドコーナーで先が見えず、またコーナー進入部分には立体交差の構造的な段差が路面にあってマシンが跳ねる。このコーナーをアクセル全開で駆け抜けるにはバランスの優れたいいフォーミュラマシンとドライバーの度胸が必要だった。
ツーリングカーやプロトタイプのレーシングカーではダウンフォースが足りずアクセル全開どころかブレーキングしてシフトダウンする必要もあったため、むしろ簡単だったが、F3マシン以上のフォーミュラカーはアクセル全開が可能だった。実際、僕が1988年に全日本F3選手権タイトルを確定したレースでは、全ラップをアクセル全開で駆け抜け勝利を手にいれることができた。
だがF3000マシンともなると、速さ、Gが格段に増して難しくなる。それをトーマス・ダニエルソン選手は、テストで初めてアクセル全開走行を試して成功させた。その直後を走っていた僕は、彼のエンジン音が高まったまま130Rに進入し、クリアしたのを現認したのだ。走行後、驚いて彼のピットを訪れ、ことの如何を本人に問うと「いや〜怖かったよ。心臓が口から飛び出るかと思った」と。そして、チームオーナーが見せてくれたダニエルソン選手のデータロガーは、130Rの進入から出口まで全開のまま一直線に記録されていた。
130R全開抜けの最初の扉を開けたダニエルソン選手。彼もまた常人とかけ離れた特殊なドライビングセンスと度胸を兼ね備えたレーシングドライバーだった。