ルノー4CV・オースチンA40・VWサンタナを日本で生産!? メーカーにとって諸刃の剣だった「ノックダウン生産」とは (2/2ページ)

ノウハウが手に入る代わりに自社の方向性が決まってしまう弊害も

 とはいえ、政府の狙いもあって各社はずっとノックダウン生産に留まるつもりはなかった。当初は部品を輸入して組み立てるだけの純粋なノックダウン生産といえる状況だったが、徐々に国産パーツの比率をあげていく。最終的には部品の国産調達率が100%になったということは、部品を輸入して組み立てるノックダウン生産から、設計図を基にしたライセンス生産へ移行したという風に捉えることもできる。

 その後、自動車産業は日本の基幹産業となったわけで、1950年代にノックダウン生産からスタートして、自動車メーカーやサプライヤーを育てようという政府の目論見は上手くいったように思える。

 そして、ノックダウン生産の影響は色濃く残ることになった。日野が初めて生み出したオリジナル乗用車である「コンテッサ」が、ルノー4CVと同じRR(リヤエンジン・リヤ駆動)となっていたのは、ノックダウン生産によって学んだノウハウを活用したことの象徴だ。

 とはいえ、コンテッサが思うように売れず、早々に日野が乗用車生産から撤退することになるのは、ルノー4CVのノックダウン生産から乗用車製造をはじめた影響で、RRレイアウトを選んだことにあることは要因として無視できない。ノックダウン生産は自動車産業の成長につながったが、そのパートナー選びは企業の方向性や将来性にも大きく影響してしまったといえる。

 ところで、1980年代には日本の自動車産業が成長したゆえに、再びノックダウン生産が注目されることになった。自動車の輸出による日本の貿易黒字が大きくなりすぎたことの対応として、ドイツ・フォルクスワーゲンの4ドアセダン「サンタナ」を日産・座間工場(1995年に閉鎖)でノックダウン生産をして、日産ディーラーで販売することになったのだ。

 わずか30年で「ノックダウン生産」は自動車製造を学ぶ手法から、貿易摩擦を解消するためのソリューションとなったのだ。これほどの速度で日本の自動車産業が成長するとは、日産がオースチンを作っていた頃には誰も想像していなかったはずだ。


山本晋也 SHINYA YAMAMOTO

自動車コラムニスト

愛車
スズキ・エブリイバン(DA17V・4型)/ホンダCBR1000RR-R FIREBLADE SP(SC82)
趣味
モトブログを作ること
好きな有名人
菅麻貴子(作詞家)

新着情報