振り返ると名車が多かったいすゞの乗用車
こうして1960年代に日野自動車が乗用車販売から撤退したあとも、いすゞ自動車はオリジナルの乗用車を作り続けた。当時のシンボルともいえるのが1968年に誕生した「117クーペ」だろう。かのジウジアーロ氏がデザインしたボディは、国産車とは思えないほど流麗。当時、いすゞのプレス技術では量産不可能なほどのボディで、初期型は手作業で作られたことから「ハンドメイド」と呼ばれることもある。
その後、GM(ゼネラルモーターズ)との提携により、FRプラットフォームのグローバルモデルに自社エンジンを載せた「ジェミニ」を誕生させるなど、日本でも一定の存在感を示す乗用車メーカーとなっていった。ジェミニをFFへと刷新した際には「街の遊撃手」というキャッチコピーと市街地でアクロバティックな走りを見せるCMで話題ともなった。
ほかにもアスカ、ピアッツァなど印象的な乗用車を生み出していったが、販売的にはけっして好調とはいえず、いすゞの経営において乗用車部門は足を引っ張る存在となっていった。そこで1990年代に段階的に乗用車生産から撤退するという経営判断が行われた。
とはいえ、いすゞの乗用車はトラックの大口顧客へのビジネスにおいて欠かせない存在でもあり、いきなり乗用車を止めるのではなく、他社からOEMを受けるカタチをとった。
具体的には、1990年にアスカはスバル・レガシィのOEMモデルとなった。その代わりに、いすゞのSUVモデルである「ビッグホーン」をスバルへOEM供給するというWin-Winの関係を築いていた。
その後、1993年にはジェミニがホンダ・ドマーニのOEMとなり、1994年にはアスカがホンダ・アコードのOEMとなっていくなど、ある意味で迷走的な状況になり、いすゞのセダンは消えていくことになる。
ただし、完全に乗用車を諦めたわけではなく、1990年代には「ビッグホーン」、「ミュー」といったSUV(当時はクロカン四駆やRVと呼ばれた)に注力して生き残りを探ったこともあった。RVブームに乗ってビッグホーンがスマッシュヒットを放つが、それでもビジネス的には厳しく2002年にSUVの生産からも完全撤退、いすゞの乗用車は完全に消滅してしまう。
いすゞSUVの最後を飾るように、1997年に生まれたのが「ビークロス」だ。まるでショーモデルがそのまま公道に飛び出してきたようなスタイルはインパクト抜群。
とはいえ、バブル経済が崩壊した日本市場において、実用性よりもスタイルを重視したSUVはあまりにも贅沢な存在であり、ビジネスとして成功させるのは難しかった。