この記事をまとめると
■フェラーリが365GT4 BBでV12をミッドマウントしたのはランボルギーニ・ミウラへの対抗心から
■365GT4 BB用に開発されたエンジンは180度のバンク角を持つV12エンジンだった
■V12のミッドシップはF512Mまで踏襲されたが、現在はスペチアーレの象徴となっている
ミウラの存在がなければ誕生しなかったかもしれないフェラーリ
それまで12気筒のロードカーにおいては、頑なにフロントエンジンの基本設計を貫き通してきたフェラーリ。そのフェラーリが一転、365GT4BBでミッドシップへと大幅な意識改革を行った理由。それを遡っていけば、たどり着くのはおそらくは1965年のトリノ・ショーで、ランボルギーニが出品したV型12気筒とベアシャシーのみのプロトタイプ、TP400に行きつくのではないだろうか。
エンツォ・フェラーリの胸中が穏やかなものではなかったことは想像に難くない。一方のランボルギーニとて、このTP400をベースにどのようなモデルを製作するのかさえ、まだその具体的な像は見えてはいなかったが、あるいはモータースポーツへの進出さえ狙うかの如き、その不気味な姿は、エンツォの目には驚異の存在だっただろう。
かくして新型12気筒ミッドシップの開発をスタートさせたフェラーリだが、それでもそのプロジェクトの立ち上がりは1969年春のことだったというから、この時すでにランボルギーニのミウラは市場にあった。そのミウラよりも美しく、そしてもちろん高性能なミッドシップスポーツを生み出すためにまず必要とされたのは、新型エンジンの開発。
バンク角を180度まで開いた12気筒エンジンは、見た目には水平対向12気筒にも見えるが、実際には「Boxer」というネーミングが与えられているものの、対向するシリンダーでクランクピンを共通するV型12気筒エンジンである。当時フェラーリは、F1においてもフラットタイプの12気筒エンジンを搭載していたから、それはフェラーリにとってもっとも大きな宣伝効果を生み出した。
最初のBB、すなわち365GT4BBが正式に発表されたのは1971年のトリノ・ショー。軽量化やエアロダイナミクスにおいても多くの新しい技術を導入して製作されたこのモデルは、ランボルギーニのミウラがそうであったように、当初は限定販売を前提とした実験車的な役割を果たすモデルとしてフェラーリでは考えられていたようだが、トリノ・ショーでの評価は非常に高く、実際には1973年から1976年までに387台が生産されるに至っている。
ミッドに搭載されるエンジンは、前で説明したとおりバンク角180度のV型12気筒DOHC。組み合わされる5速MTの直上にそれを搭載するという、きわめて特徴的なレイアウトが採用されていた。それによる重心高の高さが、コーナリング時に与えた影響はやはり大きかった。
1976年になると、フェラーリはこの365GT4BBをマイナーチェンジし512BBへと進化させる。ミッドのV型12気筒エンジンはそれまでの4.4リッターから5リッターに拡大され、軽量化のために使用されていた高価な素材も、一部では一般的なスチールやアルミニウムに置き換えられた。
365GT4BBで380馬力を掲げた最高出力は360馬力にダウン。この時代、年々厳しさを増す排出ガス規制に、スーパーカーの世界は翻弄されていくなか、929台が生産された。さらに1981年には、ボッシュ製のKジェトロニックを搭載した512BBiが誕生。
5リッターエンジンの最高出力は340馬力に抑えられたものの、それでも最高速度の公称値は280km/hと、当時のスーパースポーツとしては第一線の実力を誇った。生産台数は1984年までに1007台とされている。