ロードスターの「人馬一体」は初代から受け継がれている モータースポーツの世界ではなくても、他のクルマには負けないものを持っている、という大きな魅力があるのがマツダ ・ロードスター。それは30年以上経過しても変わらない、「ライトウエイトスポーツ」であり続けることに尽きるでしょう。マツダ社内では今でも、その頭文字であるLWSという単語が日常的に使われているそうです。また、1989年に初代ロードスターが誕生するまでの経緯には、数々のストーリーがあり、そのどれもが人々の胸を打つものです。
マツダ・ロードスターの走り 画像はこちら
例えば、今も受け継がれている「人馬一体」という言葉。これは初代ロードスター の開発主査を務めた平井敏彦氏が、クルマと人の一体感、クルマを操る適度な緊張感、Fun to Driveな走り感、打てば響くダイレクト感、これらを統合したものが人馬一体であると表現して、ライトウエイトスポーツの開発テーマとして用いたものです。
そして平井主査はその実現のためなら手段を選ばない、まさに前例のない開発を進めていったと言います。1つのエピソードとして、200万円以下のクルマに高コストのアルミボンネットを設定したり、社内規定より車高を下げたり、といったことを納得させるために、平井主査は野球のバットを持って各部署を回ったと言います。周囲は「殴り込みか?」と慌てたところそうではなく、バットは太い方を前にして振ると重くて回しにくいが、細い方を前にして振ると簡単に回せる、ということをやってみせて、説得したということでした。こうしたエピソードがいくつもある初代ロードスターは、やはりいつまでも特別な存在として愛されているのだと思います。
マツダ・ロードスターの内装 画像はこちら
そしてそれは、ランドクルーザー にも通じるものがあります。ルーツとなるトヨタBJ型は、当時の警察予備隊に向けたオフロード車として誕生。走行試験で、なんとトヨタBJ型は自動車として初めて、富士山6合目までの登坂に成功しています。
トヨタBJ型 画像はこちら
1951年7月のこの日から、数々のランクル伝説がスタートしたと言ってもいいでしょう。「行きたいときに、行きたいところに行け、必ず帰って来られる」というユーザーの願いを叶えるため、現地現物を基本として要望を聞き、状況を確かめ、ひたすら改良を続けるという真摯な開発を繰り返してきたことそのものが、ランクルの歴史となっているのです。その結果、絶対的な信頼性はもはやライバル不在とさえ言われる存在に。以前、モロッコのサハラ砂漠でツアーコンダクターをしている現地の男性に聞いたところ、「ランクル以外に乗る人の気が知れない」と言われたことがあり、それほどの信頼性なのだと衝撃を受けました。日本の自動車メーカーが、このような誇らしい存在として世界のあらゆる道を走る人たちを支えていることは、本当に素晴らしいことだと思います。
トヨタ・ランドクルーザー(歴代) 画像はこちら
ということで、愛され続けるクルマにはそれ相応の理由がありますね。そのエピソードや歴史を伝えていくことも、私たち日本人の役割なのかもしれません。