「MR+スーチャー」で「4WDターボ」のアウディに勝利! ランチア・ラリー037はWRCに放たれたレーシングカーだった (2/2ページ)

スーパーカーを軽く凌駕する運動性能の持ち主だった

 ランチア・ラリー037の開発はアバルトが中心となって進められたが、この時期ランチアは、サーキットレースのグループ5カー、ランチア・ベータ・モンテカルロ・クーペで実績を積み重ねていた。この車両のパワートレイン系を活かしたグループ6マシン、ランチアLC1が、WECシリーズでポルシェ956と接戦を演じたことはよく知られるとおりだが、ランチア・ラリー037は、ラリー(WRC)を視野に収めながら、その実態はレーシングカーと呼べる内容で仕上げられていた。

 全長3915mm、全幅1850mm、全高1245mmというワイド&ローの車体スペックは、ラリーカーではなくまさしくスーパースポーツカーのそれで、いってみれば、レーシングカーをラリーに投入するようなものだった。

 なかでも特徴的だったのは、ホイールベース値を2440mmに設定したことで、設計当時は運動特性の向上から2180mmという極端なショートホイールベース値で作られたランチア・ストラトスが、結局「動きすぎて」不安定なハンドリングに陥った反省点を活かすものだった。

 ちなみに、1200kgを切る軽量な車体は、センターセクションにあたるキャビンモノコック軸に前後鋼管スペースフレームを組み合わせる構造が採られていた。設計はジャンパオロ・ダラーラが担当。完成度の高いミッドシップフォルムはピニンファリーナのデザインによるもので、性能は究極の競技車両を目指しながら、競技車両といえども「デザインセンス」にこだわる、いかにもイタリアメーカーらしいパッケージングだった。

 生産台数は200台(グループBホモロゲーション取得の最低生産台数)を少し超す程度といわれ、WRCには1982年のツール・ド・コルスが初参戦となっていた。この年は、熟成の域に達していたグループ4との混走期で、まだグループB車両の参戦はなく、先鞭をつけるかたちで登場したランチア・ラリー037は、マルク・アレン/イルカ・キビマキ組の手により総合9位(グループBクラス優勝)でデビュー戦を終えていた。

 以後、1982年の後半シーズンで車両の熟成・開発を進めたランチアは、翌1983年から本格参戦を開始。ミッドシップ2シーターの優れたハンドリングと運動特性を活かし、わずか2ポイント差ではあったが、アウディの猛追撃を振り切ってメイクスタイトルの獲得に成功した。しかし、グラベル路の走破性能で4WDが圧倒的に優れることを痛感したシーズンでもあった。

 翌1984年は、ランチア・ラリー037が比較的有利なイベントのみに絞っての参戦となり、アウディがメイクスタイトルを獲得したが、4WD+ターボが絶対的優位にあることを認識した各メーカーは、コントルール性に優れたセンターデフを持つ4WD方式にターボチャージャーを組み合わせたミッドシップラリーカーを開発。

 この結果、プジョー205TC16やこれを追ってランチア・デルタS4という怪物マシンが登場する流れとなっていた。しかし、ドライバーのコントロール限界を超す性能域にまで達していたグループBマシンは、観客を巻き込む大きな死亡事故を複数引き起こし、あまりに危険な車両規定だということからカテゴリー自体の消滅に結び付いてしまった。

 グループB規定の移行期に、考えられる在来自動車メカニズムの粋を結集して作られた珠玉の名作、ランチア・ラリー037はこんな車両だった。焦点はあくまでWRC、ロードバージョン(ストラダーレ)はグループBラリーカーの認証を取得するための手段に過ぎなかったが、運動性能は当時の名だたるスーパースポーツカーを軽く凌駕するものであったことを最後に書き加えておきたい。

 目的意識が非常にはっきりとした、ピュアな車両性格、性能を持つクルマだった。


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