この記事をまとめると
■キャロル・シェルビーがACエースにアメリカンV8を搭載してACコブラを生み出した
■クーペ版のデイトナ・コブラ・クーペは製作し、セブリング24時間などのレースでも活躍
■シェルビーACコブラは後継モデルの名のもとに数多くのレプリカモが生産されている
ACエースのシャシーに強力なフォード製V8を搭載
後にACコブラを生み出す人物のひとりとなるキャロル・シェルビーは、そもそもさまざまなレースで多くの勝利を収めた優秀なレーシング・ドライバーだった。たとえば1956年と1957年にはSCCAのアマチュア部門でチャンピオンを獲得しているし、また、1959年のル・マン24時間レースではアストンマーティンDBRで優勝を遂げている。
しかし、彼には深刻な問題があった。それは過度の緊張と仕事が引き起こしたのであろう心臓病で、結局1960年を最後にシェルビーはレース活動を引退。アメリカのカリフォルニア州へと移り住み、レーシングスクールとタイヤの販売代理店を経営しながら、スポーツカー・コンストラクターという新たな道を模索することを決断したのだ。
幸運なことに、この時期シェルビーはそれから大きな助けとなる人物と次々に出会い、親交を深めることになる。ピート・ブロック、デイビッド・エヴァンス。いずれも当時のアメリカのモータースポーツ界においては、デザイナーとして、またエンジニアとして著名な存在だ。
シェルビーがスポーツカー・コンストラクター、そしてそれをベースにレーシングカー・コンストラクターとなるために選択した手法は、イギリスのAC社から「エース」のシャシーを購入し、それにイギリス・フォードではなく、デトロイト産の強力なV型8気筒エンジンを搭載するという策だった。ACエースのシャシーには、まだまだ高性能なエンジンを搭載するだけの余裕がある。シェルビーはそう確信していたのである。
デトロイトのフォード製221立方インチ(3.6リッター)エンジンと4速MTを組み合わせたパワーユニットを完成させると、それをエースシャシーが待つイギリスへと出荷。さらには、260立方インチ(4.3リッター)エンジンの搭載も行われた。
最初の221立方インチ版ACエース(CSX001)は、1962年にはカリフォルニアへと送り返され、ここでお馴染みの「ACコブラ」の名が与えられる。その後もACカーズからはシャシーのみがシェルビーのもとへと輸出され、その生産は1965年に大きな規模を持つ、ロサンゼルス空港の元ノースアメリカン航空のハンガーに移転してから、加速度的にその早さを増していくことになる。フォード・マスタングの高性能版の生産を担うのもこの頃からの話だ。