バブル時代は自動車メーカーもノリと勢いでイケイケだった! いまじゃ絶対登場しない「強烈な」国産車たち (2/2ページ)

バブルだからこそ生まれたいまなお語り継がれる至極の名車たち

 そして、第2弾が冒険心をくすぐった日産パオ。Be-1がミニなら、こちらはルノーキャトル似のデザインで、限定3カ月の販売期間に生産台数の倍もの購入申し込みがあり、争奪戦が繰り広げられたのである。それもまた、”バブル景気風”のなせる業だったはずだ。

 日産パイクカーシリーズの第3弾が1991年、つまり、バブル崩壊直前に登場した日産フィガロ。こちらはイギリスのライトウエイトスポーツカーを思わせる、これまたレトロなデザインの4人乗りオープンカー。限定2万台に対して、3回の抽選が行われ、予算がふんだんにあったのか、「フィガロストーリー」なんていうクルマと恋愛を綴った映画まで上映されたほどだった。

 今でも「バナナマンのせっかくグルメ」でバナナマンの日村さんが番組で乗っているクルマとしても有名で、現在でも通用するバブル期を象徴する1台と言える。こんな、冷静に考えればニッチすぎるクルマの企画、今の日産では絶対に通らないだろう。もちろん、日産がパイクカーばかり作っていたわけではなく、1989年には、今ではべらぼうなプレミアム価格が付いているR32型スカイラインGT-Rを登場させている。

 同年には初代ユーノスロードスターもデビューし、クルマの、スポーツカーの当たり年でもあったのだ。

 現在のレクサスのフラッグシップモデルのLSの初代型となる、その滑らかで静かすぎる走行性能で世界を驚かせたトヨタ・セレシオ(日本名)のデビューもまた、1989年だ。ある意味、世界の高級車に日本車として初めて堂々と戦えた、日本車の歴史に永遠に残るであろう名車もまた、バブル期真っ盛りの年に登場したのである。

 が、日本のバブル期をもっとも象徴する1台こそ、1989年発表、1990年発売のホンダNSX(初代)だろう。ホンダF1が大活躍していた時期にホンダ車の象徴として本気で開発されたアルミ製モノコックボディによるほぼ手作りのミッドシップスポーツカーであり、価格は当時の国産車としてはめっぽう高額な800万円。それでも注文が殺到。納期3年という逸話もあり、瞬く間にプレミアム価格となった(一部の人は投資目的でガレージに眠らせていた)。

 時を戻せば、バブル期と重なるハイソカーブームの象徴となる1台の高級サルーンが1988年に華々しくデビューしていた。それが今、伊藤かずえさんの愛車のレストア話でも盛り上がっている日産シーマである。セドグロをベースにした、国産オーナーカーとして初の3ナンバー車となる高級車。パワーユニットには3リッターV6ターボ(VG30DET)を揃え、電子制御エアーサスペンションなどを用意し、発売年だけで3万6000台以上が売れた大ヒット作。

 1991年に早くも登場した2代目は、4.1リッターのV8(VH41DE)なんていう、オーナーカー向けとしてはかなり攻めた超ド級のパワーユニットを設定(セルシオへの対抗意識もあったはず)。間もなく訪れるバブルの終焉に向かって猛進した(街中や高速道路でも)1台となったのである。そのシーマは、ハイソカーとして、ワンレンボディコン女子を乗せるに最高とされたのも事実。当時の東京の夜の六本木、赤坂に溢れていたことを思い出す。

 最後に紹介するのは、1990年に日本に導入された三菱エクリプス。元々は、北米仕様の6代目ギャランをベースにしたリトラクタブルヘッドライトを持つスタイリッシュクーペであり、もちろん左ハンドル。それをバブルの風に乗せて日本に逆輸入したのである。こうした凄まじい新車攻勢、思い切った導入も、やはりバブルの後押しなしには、あり得なかったということだろう。


青山尚暉 AOYAMA NAOKI

2024-2025日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員

愛車
フォルクスワーゲン・ゴルフヴァリアント
趣味
スニーカー、バッグ、帽子の蒐集、車内の計測
好きな有名人
Yuming

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