いまではドル箱のスモールランボもかつてはお荷物だった
イスレロの後継車、1970年デビューの「ハラマ」は、フェルッチオ・ランボルギーニが生前、もっとも気に入っていたモデルだったとも噂されているが、これもまた「やっちまった」ランボルギーニのひとつ。ボディデザインはあのミウラや、後にカウンタックを生み出すベルトーネのマルッチェロ・ガンディーニ。その端正なスタイリングは一部のカスタマーには受けたものの、2380mmというランボルギーニ史上最短のホイールベースで2+2のキャビンを実現するなど実用性には乏しかった。
そしてこのハラマも、イスレロと同様に、すぐに強化型の「ハラマGTS」を追加するが、結局は「やっちまった」の域を脱することはできなかった。生産台数は6年間でトータル327台である。
さらに1970年代に入ると、フェルッチオはポルシェ911のライバル車となるべく、V型8気筒エンジンをミッドシップした新型車の開発を、当時チーフエンジニアの役にあったパオロ・スタンツァーニに指示する。当時のポルシェは911を年間で1500台ほど生産するにすぎない、現代の姿と比較すればまだまだ小規模なスポーツカーメーカー。フェルッチオはランボルギーニをさらに成長させるために、この市場に目をつけたのである。
スタンツァーニは見事にフェルッチオの要求する、V8ミッドシップの2+2モデルを完成し、それには「ウラッコ」の車名が与えられた。最初に搭載されたのは2.5リッターのV型8気筒だったが、その後イタリア市場の専売車種として2リッター仕様が、また高性能仕様として3リッター仕様も追加設定されている。ホイールベースはミウラのそれよりさらに50mmも短い2450mm。
だが、ウラッコが発表された1970年のトリノ・ショーの時点では、ランボルギーニ社の経営は一気に苦境に陥っていた。そのようななかでもウラッコは、1972年にようやく生産を開始し、諸説あるものの1979年までに約800台がランボルギーニからデリバリーされたという。当時の生産能力や財務状況を考えれば、それは一概に失敗作であったとはいえないのではないだろうか。
このウラッコの生産が進むなか、創業者のフェルッチオ・ランボルギーニは、ランボルギーニ社の経営から撤退。新たなリーダーとしてルネ・マイラーが就任することになった。彼がまず進めたのは、ウラッコP300をベースとしたデタッチャブルトップ付きの2シーターモデルの開発。当時モータースポーツの世界で人気だったシルエット・フォーミュラーを彷彿させるオーバーフェンダーなどの装備から、その名も「シルエット」とされたそれは1976年から1979年まで生産されたが、世界的な経済情勢の悪化にも見舞われ販売は低迷、わずかに53台が販売されたのみという伝説の「やっまった」モデルとなってしまった。
その後継車の「ジャルパ350」は、1981年にシルエットからモデルチェンジされ誕生したものだが、こちらも販売は好調ではなかった。
ミッドに搭載されるV型8気筒エンジンの排気量をシルエットの3リッターから3.5リッターに拡大し(したがってシルエットの正式な車名は、シルエット300である)内外装もさらに現代的なフィニッシュに改められたが、1988年までにデリバリーされた台数は400台強。これがもしかすると、ランボルギーニにとっては最後の「やっちまった」モデルといえるのかもしれない。