ランボルギーニに振り回された悲運のスーパーカーBMW M1とは (2/2ページ)

生産の遅れにより活躍の場を失ったBMW M1

 そのような中でも、M1の基本設計は着実にその歩みを進めていった。高剛性な鉄管スチールフレームのミッドには3.5リッター仕様の直列6気筒DOHC24バルブエンジンを搭載。これはもちろん3.0CSLのレーシングエンジンが基本で、圧縮比は9.0に、さらにクーゲルフィッシャー製の機械式フューエルインジェクションの装備などによって、ロード仕様でも272馬力の最高出力が得られていた。

 実際に限られた舞台ではあったものの、ル・マン24時間などのレース仕様車では、500馬力級の最高出力が得られていたという。サスペンションは前後ともにダブルウイッシュボーン。M1はサーキットの新たなヒーローになるはずだった。

 だが、すでに企業としては経営破綻の状態に近かったランボルギーニでは、このM1の開発のみならず、生産も含めたBMWのリクエストに応えることはできなかった。BMWは、一時ランボルギーニの買収も考えるが、従業員の組合や下請け業者はそれに反対。ランボルギーニは、このM1プロジェクトも手放すほかはなかったのだ。

 結局、M1の生産はイタルデザインの下請け工場でボディパネルの製作を行ったあと、シャシーコンポーネンツを装着、その後ドイツのバウアー社でBMWモータースポーツ社から送られてくるエンジンなどのメカニカル・コンポーネンツを搭載し、再度それをBMWに送り返し最終検査を受けるという複雑なプロセスを強いられることになってしまう。1978年のパリサロンで発表されたM1は、こうして誕生したモデルだった。

 1980年末までに800台をセールスするという計画も、高価だった影響もあり、実際にはその半分程度(450台前後が一般的に語られる数字とされる)にとどまり、グループ4のホモロゲートが完了したのは、皮肉にもFIAがそれまでのグループ分けを全廃し、グループA/B/Cに再編した1981年のことだった。行き場を失ったM1は、ワンメークレースのプロカー・アソシエーション・シリーズなど、ごく限られた舞台でのみ、その雄姿を披露するにとどまったのである。

 とはいえこのM1の苦難のヒストリーは、決してM1の価値を貶めるものではない。コレクターズ・カーとしての大きな価値は、これからも一切変わることはないだろう。


山崎元裕 YAMAZAKI MOTOHIRO

AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員 /WCOTY(世界カーオブザイヤー)選考委員/ボッシュ・CDR(クラッシュ・データー・リトリーバル)

愛車
フォルクスワーゲン・ポロ
趣味
突然思いついて出かける「乗り鉄」
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