パンテーラの登場により一躍脚光を浴びたデ・トマソ
そして1970年3月、パンテーラはモデナで正式発表された後、4月にはNYショーに出品。同年10月にはそのセールスが開始されたのである。
パンテーラの開発、そして生産を開始するにあたって、大きな助力となったのは妻のイザベルであった。彼女の親族はアメリカでローワン・インダストリーという会社を経営しており(後にデ・トマソと共同で電気自動車の開発にも参画する)、ここからの豊富な資金でギアの全株式の51%を手中に収めることに成功していたのだ。
一度はローワン社の首脳が航空機事故で死亡したのを受けて、フォードはローワンやボディを製作するヴィニャーレ、そしてデ・トマソそのものも手中に収めるが、1970年代中盤に石油危機によってパンテーラの販売台数が年間200台を下まわるようになると、フォードはパンテーラ・プロジェクトから撤退。すべては再びアレッサンドロのもとへと戻ることになり、パンテーラの生産は続けられた。
1970年にまず誕生したパンテーラは、「パンテーラL」と呼ばれるモデルで、これはオーバーフェンダーも持たない比較的スムースなボディを持つモデルだ。本来ならばここで最高出力の数字を明記したいところだが、さまざまな資料によってその数字は異なる。300馬力前後というのが一般的なパワースペックということになりそうだ。
アレッサンドロは、デビュー後すぐにパンテーラの「グループ3」と「グループ4」仕様の開発を指示。グループ4モデルは1972年のル・マン24時間レースにもエントリーしており、それをベースとしたロードモデルも誕生している。
1975年には、やはり高性能モデルの「GTS」もデビューした。ミッドに搭載されるエンジンはさらに350馬力クラスにまで強化され、同時にトランクとエンジンの両フード、そしてウインドウフレームをブラックに塗装。オプションではワイドタイヤとホイールの選択が可能になったため、それとセットでワイドフェンダー仕様をオーダーすることもできた。
レースの世界では同年に「グループ5」がデビュー。1979年のル・マン24時間までサーキットを走り続けるが、その姿はもはやシルエット・フォーミュラーともいうべきで、オリジナルのパンテーラの面影は少ない。
そしてこちらも1980年には「GT5」として、また1985年にはそのマイナーチェンジ版として「GT5S」が生み出されるのである。このGT5Sでは、前後ブレーキのベンチレーテッドディスク化やサスペンション設計の見直しなど、スーパースポーツとしての熟成がさらに図られている。
1990年になると、デ・トマソからは「ノーバ・パンテーラ」、すなわち新しいパンテーラと呼ばれるビッグ・マイナーチェンジ版のパンテーラが誕生するが、こちらはマルッチェロ・ガンディーニによってデザインの見直しが図られたモデルだ。一気に現代的な姿へと生まれ変わったパンテーラだが、アレッサンドロはすでにこの段階で後継車のプランを考えていたともされる。
1970年から1994年までの長期にわたって7298台が生産されたパンテーラ。その後継車は創立40周年イベントに姿を現したプロトタイプをベースとしたものだったのか、あるいはまったく異なるものだったのか。デ・トマソのもとからはその後、グアラもデビューするが、その販売にはパンテーラのような勢いはなかった。
そしてデ・トマソ社は2004年、その歴史に終止符を打ったのである。