「グループBのホモロゲモデルとして開発」はウソ! 伝説中の伝説「フェラーリ288GTO」の真実 (2/2ページ)

ホモロゲートではなくただのミッドシップカーのはずだった

 そして自分自身にも288GTOのデビューから20年以上の時を経て、F40を主題とした書籍を執筆するチャンスに恵まれた。当時288GTOからF40まで、そしてコンペティションモデルなどの派生モデルなど、F40に関するほぼすべての素材を採り上げたこの一冊の取材のために、イタリアを始めその隣国を訪れた回数は10回をはるかに超えた数字になるだろう。そのなかでもとくに長い時間を取材のために費やしたのは、これらのモデルのチーフエンジニアとして、エンツォ・フェラーリからの勅命を直接受けたニコラ・マテラッツィ氏である。

 氏には当時のフェラーリ社の内情から、288GTO、同エボルチオーネ、そしてF40に関する開発の背景、そしてメカニカルなディテールを仔細に伺うことができた。そしてもちろん長年心の中で温めてきたその疑問も、ストーリーの始まりとして氏には問わなければならなかった。それはもちろん、「なぜフェラーリは1984年になってからグループBの288GTOを発表したのか。その真の目的を教えてほしい」というものだった。

 マテラッツィ氏の答えはとてもシンプルだった。

「私がエンツォから依頼されたのは、排気量が3リッタークラスの新しい縦置きミッドシップ・スポーツを作れということだけで、グループB車両を開発せよとは一言も言われていない。設計に、排気量などグループBのレギュレーションを参考にはした部分はあるが、288GTOは、最初はホモロゲーションモデルでも何でもなかったんだよ」

 次回の訪問では、例のジュネーブ・ショーから大切に保管していたプレスリリースを氏に見せ、もう一度聞く。

「288GTOはフェラーリの歴史のなかで初めて、マーケティングの観点から生み出されたモデルだ。だから同じGTOであっても、250GTOのそれとはまったく意味が異なる。それはF40も同じことで、私とエンツォとの間では、最初は288GTOと同じくらいのボリューム、あるいは多くても300台くらいの限定車とする約束だった」

 しかし、エンツォの死後、その約束は反故にされ1300台以上ものF40がデリバリーされてしまったのはご存知の通り。

「カスタマーのドライビングスキルやフェラーリの所有歴などを考えれば、あれほど多くのF40がアクシデントで失われることもなかっただろうに。エンツォのいなくなったフェラーリには、私は何の未練もなかった。フェラーリを辞めたのは、それが直接の理由といえるかもしれないな」

 288GTOはグループBにあらず。その始まりはただの新型ミッドシップスポーツカーだったと語ってくれたマテラッツィ氏の笑顔を、自分は今も忘れない。


山崎元裕 YAMAZAKI MOTOHIRO

AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員 /WCOTY(世界カーオブザイヤー)選考委員/ボッシュ・CDR(クラッシュ・データー・リトリーバル)

愛車
フォルクスワーゲン・ポロ
趣味
突然思いついて出かける「乗り鉄」
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