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ガヤルドで花開くまで「スモールランボルギーニ」は苦難の連続! V8搭載の「不遇」の3台とは (1/2ページ)

ガヤルドで花開くまで「スモールランボルギーニ」は苦難の連続! V8搭載の「不遇」の3台とは

この記事をまとめると

ランボルギーニは飛躍の秘策としてコンパクトなV8搭載の2+2モデルの販売を計画

■ウラッコ、シルエット、ジャルパと続いたスモール・ランボルギーニは成功しなかった

■現在のランボルギーニは売上の多くをV10搭載のウラカンとV8搭載のウルスが占める

ランボルギーニ飛躍の秘策がV8搭載のコンパクトモデルだった

 ファーストモデルの350GTに始まり、400GT2+2、ミウラ、イスレロ、ハラマと、1960年代から1970年代にかけて、次々にV型12気筒エンジンを搭載する高性能モデルをデビューさせたランボルギーニ。だがそのセールスは、パワーユニットを横置きミッドシップする流麗なスタイルのミウラを除いては満足できるものではなかった。

 社長のフェルッチオ・ランボルギーニは、次なる秘策として、ポルシェ911を直接のライバルとするよりコンパクトなV型8気筒エンジンを搭載する2+2モデルの開発を指示。その命を直接受けたのは、まだハラマ開発途中にあったパオロ・スタンツァーニだった。

 実際に完成したウラッコの設計は緻密にして究極的なレイアウトのもとに成立していた。

 横置きミッドシップされたV型8気筒エンジンは前後長が1020mm、幅は600mmで高さは700mmしかない。スタンツァーニがここまでストイックにパワーユニットの小型化を進めたのは、2+2のキャビンを実現するとともに、ホイールベースを限界まで短縮することが目的だった。実際にウラッコのホイールベースは2450mmという数字を実現している。

 ボディやインテリアのデザインは、もちろんベルトーネのマルッチェロ・ガンディーニによるものだ。ちなみにスタンツァーニは、このウラッコでフルモノコックのボディ構造を試しており、それは生産技術においてもより効率的に大量生産を可能にするためだった。

 サスペンションはフロントにIアーム、リヤに逆Aアームにテンションロッドという構成。実際に1973年に生産が開始されたウラッコは、フェルッチオの当初の計画によれば、年間1万5000台程度の生産量を記録していたポルシェ911に迫る成功を収めるはずだった。

 ウラッコには、ファーストモデルの2.5リッター仕様のP250、3リッター仕様のP300、そして2リッター仕様のP200があるが、当時ランボルギーニ社はBMW M1の生産委託、あるいはミリタリー・ユースのチータのビックビジネスがいずれも成立しなかったために、極度の財政悪化に悩まされていた。

 しかもウラッコは生産にも非常に精密な技術が要求されたモデル。ランボルギーニ自身も会社の株式の51%をスイスの実業家、ジョルジュ・アンリ・ロゼッティに売却し、経営の第一線からは一歩身を引く状況に追い込まれた。

 参考までに実際に販売されたウラッコは、P250が520台、P300が205台、P200は60台とされる。チーフ・エンジニアのパオロ・スタンツァーニも、この新体制の誕生に前後してランボルギーニを去ってしまう。

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