この記事をまとめると
■1950~1960年代の日本の街角には3輪トラックが街に溢れていた
■ダイハツ・ミゼット、マツダ K360などが有名だ
■3輪トラックの歴史について解説する
3輪トラックに名付けられた「ダイハツ」がのちに社名となる
映画、『ALWAYS 三丁目の夕日』や『稲村ジェーン』の劇中車として印象的な小さな3輪トラック「ダイハツ・ミゼット」のキュートな姿に見惚れたクルマ好きは少なくないだろう。
1950~1960年代の日本の街角には、この3輪トラックが欠かせないものだった。一説には戦後、日本が軍事転用可能な四輪事業へ進出することを防ぐために、3輪トラックの製造だけは認められたから、という話もあるようだが、はたして日本における3輪トラックの歴史はどのようなものなのか、振り返ってみよう。
そもそも3輪トラックの一大ムーブメントが生まれたのは第二次世界大戦前の1930年代だった。
もともと外国製バイクを改造して後ろ2輪として荷台を設けるというスタイルで生まれたのが日本の3輪トラックで、当初は完成車というよりは町工場による改造車という位置づけのカテゴリーだった。
そんな3輪トラックの大量生産をはじめたのが大阪にあった発動機製造株式会社だ。1931年に発売されたHB型3輪トラックには大阪の発動機ということで「ダイハツ」と名付けられた。それが後に同社の社名となったことは言うまでもない。
それまでのバイクを改造した3輪トラックは、多くがチェーンドライブをそのまま流用していたのに対して、最初から3輪トラックとして開発されたダイハツHB型は、シャフトドライブ方式を採用。リヤにはデファレンシャルギヤも備えていたという。
そんなダイハツHB型のエンジンは空冷単気筒で498cc。この排気量には非常に深い意味がある。というのも当時、500cc以下のエンジンを積んだ乗り物については実質的に無免許で運転することができた。さらに1933年には750cc以下については免許がなくても運転できるようになる。これが3輪トラックの隆盛を呼ぶことになる。
当時、3輪トラックの三大メーカーと呼ばれたのが「ダイハツ」ブランドを展開した発動機製造、「マツダ」ブランドを生んだ東洋工業、「くろがね」ブランドで知られる日本内燃機の3社だ。
いずれにしても、戦前の3輪トラックはバイクの延長線上にある乗り物であった。エンジンと燃料タンクに跨って乗るというスタイルであり、ハンドルはバイク同様のバータイプだった。