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開発者の「あそび心」から生まれたS660! 消えゆく名車の7年を振り返る (2/2ページ)

開発者の「あそび心」から生まれたS660! 消えゆく名車の7年を振り返る

もともとは試作車止まりで市販化の予定はなかった

 ホンダのミッドシップ軽オープンピュアスポーツカー「S660」は、3月12日に発売された特別仕様車「モデューロXバージョンZ」を最終モデルとして、2022年3月に生産を終了。多くのファンに惜しまれながら、7年間の生涯に幕を閉じる。

 20歳代にして本田技術研究所史上最年少でLPL(開発責任者)に抜擢された椋本陵氏が生産終了発表のビデオメッセージで語った、S660の原型となるモデルの企画立案から開発・発売までの経緯に加え、その後に発売された改良モデルや特別仕様車、モデューロXについても振り返りながら、その軌跡を追ってみたい。

 椋本LPLは「10年ほど前の日本のスポーツカー市場は高価格・高スペックなモデルが中心でした。『クルマ離れ』という言葉を耳にするようになったのもこのころです」と述懐する。

「自分にも手が届き、誰もが性能を余す所なく使い切れるもっと身近なスポーツカーがあれば」という想いを抱いていたが、ちょうどそのころ、2010年に、本田技術研究所50周年を記念して行われた新商品提案コンペに「どうせ落選するだろうけど出してみよう」と企画書を作り、見事グランプリを受賞したのが、S660の始まりだった。

 その結果、「コンペに勝ったご褒美に実物大のモックアップを作ってもよい」ということになったが、当時椋本LPLが所属していたのはまさにモックアップと作る部署だった(椋本LPLは2007年にモデラーとして入社)ため、「それだけでは面白くない」と、自走可能なモデルを内緒で作ることにしたのだという。

 その後先輩たちの手も借りながら、曲線基調のデザインが愛らしい軽自動車サイズのオープンスポーツカーの試作車を完成させるも、「自分たちで乗って『楽しかったね』ですべて終わる予定だった」。だが、それが当時の社長の目に留まり、「こんなのがあるなら量産化しよう」と、急遽量産に向けた開発をスタートすることになった。

 そのLPLには企画発案者である椋本氏が選ばれたが、当時まだ22歳。開発メンバーは公募制としながら、経験豊富なベテラン開発者3名をLPL代行として脇を固める形で、開発チームを結成している。

 だが、チーム発足から間もない2011年3月、東日本大震災が発生。栃木にある本田技術研究所も大きなダメージを負ったため、働く場所もない状態からのスタートになった。

 しかしながら、2011年12月に開催された東京モーターショーにコンセプトカー「EV-STER」を出品すると、来場者から大きな反響を得たことで、開発が大きく加速。「その期待に応え、超えるために、理想のスポーツカーについて真剣に議論し、疑問があれば乗ってみる。試してまた議論をする」。それらの経験がS660に活かされたのだという。

 その結果固められた理想のスポーツカー像は、「『見てよし、乗ってよし』で、心を昂ぶらせることができるスポーツカー」。デザインはEV-STERのテイストを市販車でも再現できるよう、デザイナー、モデラー、エンジニアが知恵を出し合いながら完成させた。

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