カッコ良かったあのクルマのデザイン「じつは……」
60年代や70年代、日本車のなかには「これまでの日本車デザインの常識を覆すようなクルマ」が目立つようになった。すべてではないが、そのなかにはイタリアのカロッツェリアと呼ばれるデザイン工房などに基本的なデザインやプロトタイプの制作を依頼していたものがある。
当時は一部の自動車雑誌などで、そうした裏話が登場することがたまにあったが、この手の話は基本的には企業機密として自動車メーカー関係者が口外することはなかった。当時はまだ、日本人の欧米人との間に、クルマに対するデザインの考え方がデザイナーの実力に開きがあったのだ。
こうした話を、その当時まだ若手デザイナーだったり、または日本のデザイン関連の大学の学生だったが後年は日本を代表するカーデザイナーになった人たちから、筆者が直接聞いている。実際、彼らの多くがカロッツェリアで働くことに憧れたという。その後、日系メーカーは若手デザイナーを育成するため、欧米のデザインカレッジに留学させるなどして、国際的なデザイン感覚を学ぶ機会を与えた。
こうして海外でカーデザイン最前線を肌で感じた日本人デザイナーたちが、日系メーカーのデザイン部門の活力となったこともあり、80年代以降は日系メーカーのデザイン部門の技術力や発想力が伸びていく。
また、社内組織のなかで独立性が高かったデザイン部門だが、営業・マーケティング部門はもとより、車体やパワートレイン担当部署とのコミュニケーションが深まっていく。こうしたカーデザインの変革は、世界各地で起こった。
そうしたなかで、自動車メーカーの内製デザイナーも多民族化していった。これはカーデザインのみならず、ファッション界でも同様のトレンドとなり、フランスのトップブランドの統括デザイナーがイタリア人だったり、アメリカ人といったケースも珍しくなくなってきた。
別の視点では、日系メーカー各社がデザインを作成する際、日米欧、これに近年は中国を加えるなど、各地のデザインスタジオが持ち寄るデザインをコンペすることが当たり前になっている。そのため、日系メーカーのデザインでも、すべてが日本人の手によるものではないケースがある。
とはいえ、日系メーカーの日本市場向けのデザインは、日本人主導となるのが一般的だ。そこから生まれたデザインを海外デザイナーのテイストを比べてコンサバと見る人も、なかにはいるのかもしれないが、それは日本の市場性を十分に加味した結果なのだと思う。