日本人にとって夢の「海外サーキット」! レーシングドライバーの前に立ちはだかる「巨大な壁」への挑戦とは (1/2ページ)

海外の伝統あるサーキットを走ることは憧れのひとつ

 若いころ、まさか自分がレーシングドライバーという職業に就けるとは思いもしなかった。自動車レースとはもともと欧米の富裕層が始めた競技であり、日本のモータースポーツ創成期においても自動車メーカー専属ドライバーになれるか、自ら費用を捻出できるかしなければレーシングドライバーになることはできなかった。そこで僕はレーシングカーを作る側になろうと考え、自動車工学を学ぶなら「武蔵工大(現東京都市大学)」と言われた工業大学に進学したのだ。

 しかし、さまざまな縁や機会に恵まれ、1985年にプロのレーシングドライバーになると、叶えていきたい「夢」が生まれてくる。多くのレーシングドライバーが夢見るのはF1パイロットとなることだが、僕は現実的にF3でチャンピオンになることを熱望していた。そして1988年に全日本F3チャンピオンを獲得し、夢を果たせたかのように思えたが、じつはそうではなかった。

 やはり欧州の本場で走りたいという欲望に目覚めさせられたのだ。もとより何故F3だったのかといえば、1979年に発足した日本F3選手権は、チャンピオンになると翌年にイギリスF3選手権へ派遣させられるスカラシップがあったから。シルバーストーンやブランズハッチ、ドニントンなど子どものころから憧れたイギリス国内の有名なサーキットで競われる。

 さらにはベルギーのスパ・フランコルシャンやフランスのオールトンパークなど欧州戦も組まれていて、想像しただけで鳥肌が立つようなシリーズが組まれていたからだ。1979年の「日本F3選手権」初代チャンピオンとなった鈴木利男選手や二代目チャンピオンの佐々木秀六選手などが欧州戦を闘う切符を手にし、その活躍を期待して見守っていたものだ。だが僕がチャンピオンを獲得した1988年にはすでにスカラシップ制は廃止されていて、欧州のサーキットを走るには自分でチャンスを見出ださなければならなかった。


中谷明彦 NAKAYA AKIHIKO

レーシングドライバー/2024-2025日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員

中谷明彦
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海外巡り
好きな有名人
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