最前線のエンジニアから社長へ上り詰めた人も多くいる
自動車メーカーの社長たるもの自動車技術に一家言あってしかるべし。ユーザーはそうした見識をリーダーに期待するものだ。いまや社長がカーガイ(クルマ好き)であることが、メーカーのブランディングにもおおいに影響する時代だ。
そもそも、創業家を除くと自動車メーカーの社長というのは他の業界に比べてエンジニア出身のケースが多い印象がある。そのなかには商品開発リーダー、いわゆる新車開発のプロジェクトリーダーを経験して社長に就いた人も珍しくない。
開発主査、LPL、PGM、CVEなどなどさまざまな呼び名はあるが、量産車の開発を統率した経験があることは、ユーザーニーズを理解しているという証明にもなるし、クルマの本質を知っているという期待も高まるというものだ。
そこで今回は量産車の開発リーダーを経験したのちに社長・会長を務めた5人のエンジニアを紹介しようと思う。
1)三菱 相川哲郎氏
まずは、三菱自動車工業から。同社の軽自動車としてスマッシュヒットを放った「eKワゴン」、その初代モデルの開発責任者を務めた相川哲郎氏は、2014年6月~2016年6月にかけて同社の取締役社長を務めた。父親が三菱重工業の元・社長であり、本人も東京大学工学部出身というプロフィールを聞くと、典型的なエリートを思い浮かべるかもしれないが、eKワゴンのデビュー時に取材した経験でいえば、むしろ自動車が大好きなエンジニアといった印象が強い。
燃費偽装問題の責任を取り、短い期間で退任してしまったが、相川氏が社長を続けていたら三菱のクルマづくりへの姿勢はいまとは違っていたのではないか、という声は業界内でも多く聞かれるところだ。
2)SUBARU 竹中恭二氏
軽自動車の開発責任者から社長になった人物といえば、SUBARU(当時は富士重工業)の社長を2001年~2006年にかけて務めた竹中恭二氏も思い出される。もともとシャシー系のエンジニアとして富士重工業に入社した竹中氏は、1998年にブランニューモデルとして誕生した軽自動車「プレオ」の開発責任者を務めるなど、最前線のエンジニアから経営者となった人物。創業家をのぞき、富士重工業のプロパーとして初めて社長になった人物でもある。
竹中氏が社長だった時代に軽自動車のラインアップを拡充したのは、プレオを開発したという経験もあり軽自動車という日本独自のフォーマットに価値を見出していたからだろう。とはいえ、スバル・ブランドとして初めて日本カー・オブ・ザ・イヤーをレガシィ(BP/BL型)が受賞したときの社長であり、自らの愛車レガシィのナラシ運転は一日で数百kmを走っておわらせたというエピソードがあるほどのカーガイな一面も持つ。それでいて飛行機模型のマニアでもあるなど、まさしく富士重工業を凝縮したような人物だった。