初のサーキットで地元のライバルチームの助言を信じたら……
「いいか、130Rはアクセル全開だからな」。僕が初めて鈴鹿サーキットでレースに参加したとき、鈴鹿をホームサーキットとする某有名チームのメカニックからアドバイスされた言葉だ。
それは1981年。当時話題を集めた国内では初となるワンメイクレース「ホンダ・FFスーパーシビックレース」でのことだった。当時「月刊自家用車誌」でレース活動資金に充てようとライターとして活動していたとき、編集部から「ホンダさんがシビックのワンメイクレースシリーズを開催するから中谷君出ない?」と声を掛けていただいたのだ。ふたつ返事で即答したのは言うまでもない。
とはいえ、東京に住む僕は鈴鹿サーキットを走ったことがない。筑波サーキットで市販車のテストをしていたからツーリングカーを操る自信はあったが、ロールバーを組み込みバケットシートの完全なレース仕様車は初めてだった。タイヤもレース用スポーツラジアルでグリップが良さそう。TVでしか見たことのない鈴鹿サーキットに明け方到着し、走り始める。確か路面はウエットだった。
国内初のワンメイクレースとあってレース界でも話題となり、プロ、セミプロレベルのドライバーが大挙して出場していた。なかには子どものころからの憧れのレーサー・生沢 徹氏の名前もある。それにガンさんこと黒澤元治氏、ホンダ・ワークスの高武富久美氏、クニさんこと高橋国光氏、中野常治氏(中野信治選手の父)、津々見友彦氏など、現役の有名トップレーサーの多くが出場し、30台を超えるエントリーを集めていたのだ。
これは予選最下位か、下手をすれば予選通過基準タイムに届かず予選落ちもあり得る、とわれわれチームの関係者は青ざめていた。
いざ予選が始まると、前を行くのは生沢 徹氏のマシンだった。生沢氏のトレードマークで自身のチームである「I&I」カラーのマシンと共に走れるなんて、それだけでも感動ものだ。しばらくはラインを学ぼうと後方につけて走行。しかし、なかなかペースを上げていかない生沢氏。少ない予選時間で基準タイムを出さなければならないためS字で抜かせていただきペースを上げていった。
数周してタイヤの空気圧調整のために一旦ピットへ戻ると、編集部の先輩が興奮して駆け寄ってくる。「今総合7番手だぞ!」「え〜、本当ですか!?」とこちらが驚くほどのタイムが出ていた。そこへ隣ピットで他チームを率いていた鈴鹿の名メカニックが冒頭のアドバイスをしてくれたのだ。「ポールも狙えるぞ! 130Rは全開で行け!」と。
純情だった僕はその言葉を信じてピットアウトし最終アタックに向かった。結果、130Rをアクセル全開のまま進入しテールがスライドしてイン巻き。イン側コンクリートウォールに激しく激突し大クラッシュしてしまう。幸い怪我はなかったが、新車のマシンはエンジンが割れる程の損傷で修復不能の全損になってしまった。
うなだれてピットに戻ると、件のメカニック氏が「130R入り口から全部全開で行ったんか?」と。「はい」と応えると「アホやな〜。入り口ではブレーキ踏まんと。それから全開にするんや」とニヤニヤしながら言った。