T型フォードが左ハンドル右側通行を拡大させた
そのうえで、右ハンドルか左ハンドルかという点においては、世界初のガソリンエンジン自動車であるドイツのカール・ベンツが製作したパテント・モトール・ヴァーゲンは、3輪車のため前輪は1輪だ。そして、ベンチ式の座席の左側に運転者が座る。これは、操舵を行うレバーを右手で握り、左手は、車体左側にあるブレーキレバーを操作するためだ。
一方で、アウディの創始者であるアウグスト・ホルヒが自動車レースに出場したクルマの写真を見ると、右ハンドルで、右側を通行している。黎明期には、右側通行であっても右ハンドルが多かったという。パテント・モトール・ヴァーゲンは、変速機がなかったが、その後クルマの速度が上がるに従い変速機を備えるようになり、変速のレバーが車体外の右側にあったためであるようだ。
しかし、右側通行で追い越しをする際に右ハンドルでは先を見通しにくいので、左にハンドルを移すようになっていったとされる。そして変速レバーは車内に設けられた。右側通行で左ハンドルが主流となったきっかけは、米国のヘンリー・フォードが大量生産を行ったT型の影響が多いとされる。
右側通行か左側通行か、また右ハンドルか左ハンドルかについては、何かひとつ決定的な理由があったというより、クルマの発展史のなかで、技術的あるいは通行上の課題を解決していくうちに、都合のよい方が選ばれ、世界的に普及した車種(フォードT型のような)の影響などさまざまな要素が絡みあった結果のようだ。そのうえで、英国を中心とした左側通行は、ナポレオンの影響を受けなかったとか、欧州大陸と離れていたなど、地理的な要因を含め、馬や馬車の時代の慣例が継承されたといえるのではないだろうか。
ただし、日本に馬車の時代はなく、かつ戦国時代以降、徳川幕府の260年間は騎馬での通行も制約されたので、別の事情から左側通行になったようである。一説では、明治時代に英国から鉄道の技術が導入され、これがクルマにも当てはめられたという。日本は、明治になって鉄道やクルマなどさまざまな工業技術が海外から次々に導入され、産業化されたので、それぞれに導入した国の影響を受けている。たとえば交流電気の周波数が東と西で異なる(50Hzと60Hz)国内状況も、それぞれ導入した発電機の国が違っていたからだ。