終戦直後に初の軽自動車規格が制定されるも制約が厳しかった
日本で売れる新車の約4割を占める軽自動車。ガラパゴスと揶揄されたり、過度に優遇され続ける閉鎖的なマーケットと批判されながらも、軽自動車規格という制約の中で発展を遂げてきた。高度経済成長期のモータリゼーションにも大きく貢献。今もなお、日本の交通社会に軽自動車は絶対に欠かせない存在だ。
軽自動車の約70年の歴史を振り返ると、規格は徐々に拡大されたものの、いつの時代も軽自動車の開発は、ボディサイズと排気量が小さく抑えられる制約との戦いの繰り返しでだったと言える。厳しく制約されるがゆえに、軽自動車メーカー各社は独自の工夫を凝らし、技術を磨く必要に迫られてきた。その結果、自動車としての完成度は高まり、多様性も広がって魅力を増してきたのだ。そんな軽自動車の規格の歴史と、時代ごとの名車を振り返ってみよう。
最初の軽自動車規格が制定されたのは1949年。敗戦からまだ4年しか経っていない時代に生まれた軽自動車は、自走できる最小単位の貨物用軽車両という位置付けにすぎなかった。4サイクルは排気量150cc以下(2サイクルは100cc)、全長は2.8m、全幅は1m以内という小ささなので、ひとり乗りの3輪トラックしか作れない。
4輪車の登場を促すべく翌年には早くも改正され、排気量は4サイクルで300cc。全長は3m、全幅は1.3mまで拡大されたが、これでもまだまともな4輪車を作るには厳しすぎた。1951年の改正では、排気量は4サイクルで360ccまで拡大され、さらにその翌年には軽自動車免許が設定され、360ccまでのクルマは16歳でも運転できるようになる。
軽自動車が四輪の乗用車として普及する転換期となったのは、1955年5月に当時の通産省が提唱した「日本版・国民車構想」だ。正式には「軽自動車育成政策概要」と呼ばれ、政府が自動車産業とモータリゼーションを促進するために打ち出した構想だった。元ネタは第二次世界大戦前にヒトラーが提唱した“国民車構想”で、誰でも買える大衆車を作って国力や国民の生活レベルを高めるというもの。
1955年といえば、敗戦から10年を経て焼け野原からの復活こそ完全に遂げたものの、日本の庶民が自家用車を持つことなど夢のまた夢だった時代。国民車といわれても、当時の庶民にとってはまったく現実味の乏しい話だった。また、国民車構想はコンペによって選ばれたクルマを各社が共同で生産する方針だったので、三菱を除く自動車メーカー各社の反応は冷ややかだったという。
しかし、庶民でも比較的買いやすい軽自動車を開発するという考え自体は広く理解され、開発に本腰を入れるメーカーが増えたなど、軽自動車普及の機運が高まる契機のひとつにはなった。