その後の歴史に名を残すモデルが多数登場
5月1日からの新しい元号が令和に決まり、平成の元号が間もなく終わろうとしている。31年間続いた平成という時代はバブル景気の絶頂期と崩壊、阪神大震災や東日本大震災といった大規模災害、長かった不景気など、激動の時代であった。
激動だったのは日本車の大躍進や次々と変わったユーザーの志向の変化など、時代を映す鏡とも言われるクルマも同じだった。そこで平成の終わりを期に、平成を駆け抜けたインパクトあるクルマを良かったほう、悪かったほう含めて振り返ってみたいと思う。平成元年からスタートした本企画、今回は平成9年編をお届けしたい。
■平成9年(1997年)ってどんな年?
平成9年度から消費税が3%から5%にアップ。金融業界ではこの年の11月に北海道拓殖銀行と山一證券が倒産し、金融業界の再編の予兆が始まり、庶民も不景気を本格的に実感するようになったのもこの時期だった。
また神戸で14歳の少年による連続死傷事件が起きるなど、凶悪犯罪の低年齢化が注目され始めた年でもあった。
1)トヨタ・ラウム(初代)
当時のターセル/コルサ/カローラIIの三兄弟をベースにした、スライドドアを持つハイトワゴン的なモデル。今になるととくに珍しいジャンルのクルマではないが、じつに使いやすいクルマだった点には新しさを感じた。
また使いやすいという意味では、トヨタは初代ラウム以来2代目ラウム、ポルテ&スペイド、アイシスと年齢層などいろいろな人がいるユーザーすべてが使いやい「ユニバーサルデザイン」と呼ぶコンセプトを推進。その意味でもユニバーサルデザインの先駆けとなった初代ラウムの功績は大きい。
2)トヨタ・センチュリー(2代目)
主にプロの運転手さんが運転し、オーナーや要人が後席に座るショーファーカーは当時センチュリーと日産プレジデントが双璧であった。センチュリーは1967年の初代モデルの登場以来、30年が経ったこの年に2代目モデルにバトンタッチされた。
2代目センチュリーは2代目セルシオをベースに、日本車ではおそらく最初で最後となるであろう5リッターV12エンジンを搭載。このV12エンジンは2.5リッター直6を左右にふたつつなげるという成り立ちで、まさにモーターのような静かさ、スムースさ、力強さを備えていた。
さらにショーファーカーは信頼性が特に大切なジャンルだけに万一のエンジントラブルの際には片側の6気筒だけでも走行できるエマージェンシー機能や燃料ポンプを2つ持つなど、万全のバックアップが敷かれていた。
センチュリーは歴代、現在のトヨタ自動車東日本、旧関東自動車の東富士工場でトヨタとしては異例の手作りで生産されており、2代目センチュリーも塗装や各部の立て付けなど各部のずば抜けた各部のクオリティを持つ。それだけにV12エンジンの搭載やクオリティの高さを考えると、前後モニターのない初期モデルが1000万円を切る価格で販売されていたのは今考えると激安に感じる。またセンチュリーが手作り生産されることは、技術の伝承という意味でも重要な役割である。
なお2代目センチュリーは、2017年に1年半の空白期間を経て昨年フルモデルチェンジされ、現行型3代目モデルに移行。現行型も長寿車になるだろう。
3)トヨタ・ハリアー(初代)
ハリアーは当時のカムリをベースにした、海外ではレクサスブランドでRXの車名で販売される高級SUVである。初代ハリアーの「乗用車ベースの高級SUV」というコンセプトは海外メーカーにも大きな影響を与え、ハリアーに続いたモデルも多数登場。
外国車の影響を受けることは多くても、外国車に影響を与えることは少ないと言われる日本車において、初代ハリアーはそういった意味では数少ない例である。