パクリカーが話題の中心だったのは遠い昔の話
「どうせ、ベンツとかトヨタのパクリなんでしょ」
中国車に対してそんなことを言う人が、日本でもまだまだ多い。しかし、現実は大きく違う。中国車が欧米車や日本車のパクリっぽい恰好をしていたのは、2000年代後半までのことだ。
2010年代に入り、北京、上海、広州などのモーターショーに登場する中国車は、中国人が好む中国人らしい発想のデザインが採用されるようになった。逆に言えば、欧米車や日本車が中国寄りになってきた。中国市場を意識した外観やインテリアを量産するようになり、中国車と海外メーカー車との差が一気に減ってきた印象だ。
中国は生産販売台数でも製造台数でも、約3000万台を誇り世界ナンバーワン。第二位のアメリカの約2倍、そして第三位の日本の約6倍もの大きな市場だ。中国車パクリ時代が終焉するのと当時に、世界の中国に対する期待が高まっているといえる。
50%ルールで得た知見をもとにさらなる進化を遂げる
さて、時計の針を少し戻りして、中国車のパクリの歴史をみていきたい。90年半ばごろまでは、中国市場は極めて小さく、第一汽車や第二汽車(のちの東風汽車)など国営企業が中心に自動車開発を進めていた。デザインも動力性能も、そして走りも海外メーカーに学んだ。その結果として、パクリっぽい感じのクルマが増えた。
次の段階は、中国中央政府による外資系自動車メーカーによる中国国内生産の強化があった。なかでも、独フォルクスワーゲングループは他社に先駆けて中国での大量生産体制を敷いた。日系では日産が東風汽車と組んで、中国国内開発への投資を進めていった。
こうした海外メーカーに対して、中国中央政府は資本への介入は最大50%まで、というルールを作った。残りの50%は中国地場に振りわけることが事実上、義務付けられた。そのため、上海VW、東風日産、広汽トヨタ、長安マツダといった名称のメーカーが続々と生まれた。
この50%ルールによって、中国企業は正々堂々と合弁先の海外メーカーの技術やデザインを学ぶことができる。その知見を基に、上海汽車、東風汽車、広州汽車、長安汽車などのオリジナルブランドとして、合弁企業とは別枠で自動車開発が行われるようになった。こうして中国メーカーの技術力は飛躍的に伸びていったのだ。
EVや自動運転ではすでに中国が世界一に?
自動車開発の基礎体力を備えてきた中国メーカーとしては、次のステップはEVや自動運転など次世代車の開発と量産だ。合弁する海外メーカーとの協業の他に、欧米のIT系企業ともアライアンスを組むなどして、欧米日韓の自動車メーカーを一気に追い抜いてしまいそうな勢いだ。
中国車といえば、欧米日車のパクリ。そんな時代は、遠い昔であったように思ってしまう。