駅の売店を中心に販売した自動車雑誌はCARトップが初
3月25日に筑波サーキットで開催された「CARトップ50周年筑波フェスティバル」では、CARトップが創刊された50年前、1967年頃から現在に至るまでの歴史を知る業界関係者が集結。当時を振り返るトークショー「CARトップ創成期秘話」が展開された!
登壇したのはスバルのワークスドライバーとして1963年の第1回より日本グランプリに参戦したレーシングドライバーの大久保力さん、レーシングドライバーの津々見友彦さん、三菱自動車工業広報部の中村邦広さん、元マツダ国内広報部の西辰夫さん、CARトップ元編集長・鈴木俊治さんの5人。
途中からは、マツダで3代目ロードスターの開発を指揮し、現在は山口東京理科大学教授の貴島孝雄さん、世界最高峰のデザートレース・バハ1000に参戦するレーシングドライバーの塙郁夫さんも加わり、CARトップ編集長・城市邦夫の司会でトークショーは進行した。
CARトップ創刊時より製作に携わった経緯を大久保さんに尋ねると、「1967年当時は週刊誌ブームが起きていました。そこで、初代編集長・富田一夫さんは、従来の分厚くて難しい自動車雑誌では読者が飽きてしまうので、週刊誌のような柔らかいものを作りたいという考えをお持ちでした。私はそれに同調し、製作を手伝い始めました」と当時を振り返っている。
さらに、「駅の売店を中心に販売したのはCARトップが初めてで、それが今の成功につながっています。レースと同じく、上手にスタートすることがその後に続くということの証明です」と、当時CARトップがいかに革新的だったかを語ってくれた。
続いて津々見さんにマイクを向けると、「当時の編集部員だった鈴木さんが私と同じくシビックレースに参戦していたのですが、私が必要なパーツを装着していなかったために初めてペナルティを受けて落ち込んでいると、彼がサーキットから東京まで送ってくれて、それがきっかけで筑波アタックのテスターに起用していただきました」と、城市編集長も知らなかったというマル秘エピソードが披露された。
再び大久保さんに戻り、第1回日本グランプリ参戦時の話になると、大久保さんはスバル450、津々見さんはDKW900で参戦し、三菱は「当時コルト600で参戦していた(中村さん)」ことを回想。「コルトはシフトが横Hパターンで大変そうだった」と語りつつ、大久保さんのスバル450も「3段シフトに副変速機用のレバーが別に付いた6速MTで、副変速機があるおかげで後退も2段ありました」と告白した。それに対し「操作がものすごく複雑で、あれは頭のいい人でなければ乗れません」と津々見さんが感嘆すると、「だから私が乗ったんです」と返し、来場者の笑いを誘っていた。
話は筑波アタックへと移り、城市編集長が「いつしか筑波アタックのタイムが一人歩きし、自動車メーカーが発表前に筑波でチェックするようになりました」と振り返ると、西さんは「マツダは1978年に初代RX-7を発売して以降スポーツカーを作り続けていますが、そうするとある程度のタイムがサーキットで欲しいと考えるようになりました」とコメント。
中村さんも「三菱が気にしだしたのはランサーエボリューションIV(4)の頃からですね。スバルさんのクルマに対しどうなんだ、と」続く。
ここで、3代目ロードスターのみならずマツダの歴代スポーツカー開発に携わった貴島さんを招き、初代RX-7について聞くと、「当時ランボルギーニ・カウンタックなどのおかげで流行していたリトラクタブルヘッドランプを採用するため、3%空気抵抗が減ると運輸省に説明し、認可を取りました」という裏話を暴露。
こうして大盛り上がりでトークショーは行われた。やはり50年も続いている雑誌は詰まっている歴史が違う、そう感じさせる内容だった。