マトラ・エンジンを搭載し「レキップ・デ・フランス」を標榜したリジェ
1976 Ligier JS5・Matra MS73
1977 Ligier JS7・Matra MS76
1978 Ligier JS9・Matra V12 Formule 1
1979 Ligier JS11 – Ford Cosworth DFV
72年シーズンを限りにF1GPから撤退したマトラだったが、スポーツカーレース(=3リッターまでのグループ6による世界メーカー選手権)に参戦を続けていたためにV12エンジンの開発も継続されていた。そして76年にエンジンコンストラクターとしてF1GPへのカムバックを果たすことになる。その供給先がエキップ・リジェだった。
マトラのF1プロジェクトが開始されたとき、ときのド・ゴール政権がバックアップしたことは先に書いたとおりだが、エキップ・リジェも政治的なバックアップを受けていた。
エキップ・リジェを率いるギ・リジェは、当時のフランス大統領だったフランソワ・ミッテランと親交が深く、「レキップ・デ・フランス(オールフランスチーム)」を標榜することでジタン煙草をはじめとするフランスの大手企業からの支援を集めての発進となった。
最初の主戦マシンはジェラール・ドゥカルージュが手掛けたJS5。発表当初、そしてシーズン序盤は大きくそびえ立ったエアインテークが大きな特徴で、ジタンブルー、つまり扇子を持って踊るスペインのジプシー女を描くにも格好のスペースとなっていた。
しかしシリーズ第4戦のスペインGPからは吸気口の高さが制限されるようになり、ある意味コンベンショナルなデザインとなった。
ちなみにタイプ名のJSはギ・リジェの友人でレーシングドライバーだったジョー・シュレッサーのイニシャルで、JS1はスポーツカー。F1第1号がJS5だった。
オーストリアで2位に入ったほか、2回ずつの3位入賞と4位入賞で20ポイントを獲得。コンストラクター5位につけるとともにジャック・ラフィがドライバーズランキングで7位につけ、初年度としてまずまずの結果を残している。
翌77年には二代目マシンのJS7に進化し、スウェーデンで初優勝。78年にはJS9を投入し、2回の表彰台を含めてコンストラクター6位、ラフィーもドライバーズランク8位と、安定した成績を残すことになった。
翌79年、マトラの完全撤退を受けて、フォード-コスワースDFVを搭載するニューマシン、JS11を開発。初めて2カーエントリーとなり、またV8を搭載することでトレンドとなっていたベンチュリーカー(=ボディ下面の形状を工夫してダウンフォースを生み出す、いわゆるウイングカー)としてより効果的となったせいなのか、シーズン3勝を挙げコンストラクター3位。開幕2連勝を飾ったラフィもシリーズ4位にまで進出していた。
ゼッケンがすべて#26で混乱しそうだが、横向きの走りは76年10月に富士で行われたF1世界選手権インジャパンで撮影。正面からの走りは翌77年の富士(日本GP。富士スピードウェイ・広報部提供)。グレーのマット上に展示されているのは78年モデルのJS9で2012年にマトラ自動車博物館で撮影。純白の展示台に置かれた79年モデルのJS11は2013年の年末にイタリアはモデナのエンツォ・フェラーリ博物館のF1企画展で撮影。
(写真:原田了)