北米大陸からのチャレンジャー
イタリアやフランス、イギリス、そしてドイツなどヨーロッパの主要チーム/コンストラクターが大勢を占めてきたF1GPだが、70年代にはアメリカ系のチームも参戦していた。その先駆けとなったのはドン・ニコルズ率いるシャドウ。
日本国内のモータースポーツ界とは浅からぬ因縁を持つドン・ニコルズが起こしたアドバンスド・ビークル・システムズをベースとしたレーシングチーム/コンストラクターで、正式名称はシャドウ・レーシング・カーズ。
60年代終盤から北米を転戦するスポーツカーレースのCan-Amシリーズや、やはり北米のF5000に参戦していたが、73年にF1GPにデビューを果たしている。最初のオリジナルマシン、DN1をデザインしたのはBRMから移籍してきたトニー・サウスゲート。ちなみにマシン名のDNはチームオーナー、ドン・ニコルズのイニシャルだ。
その後、ニコルズと袂を分かち、アロウズを結成する綺羅星の英才たちが集う梁山泊でもあった。そのシャドウの活躍に影響された訳でもないだろうが、74年にはペンスキーとパーネリがF1デビューを果たしている。
CARTインディカーやNASCARでも活躍したペンスキーは、フィリップ・モリスの役員でもあったロジャー・ペンスキーが率いるアメリカ屈指の名門チーム。
一方のパーネリは、インディ500マイルで優勝経験のあるレーシングドライバー、パーネリ・ジョーンズが興したレーシングチーム/マシンコンストラクターで、やはり北米のUSACシリーズで活躍してきた名門チームだ。
両者ともオープンホイールのレーシングマシン、つまりはトップクラスのレーシングフォーミュラの製作は手慣れており、デビュー当時からオリジナルマシンを持ち込んでの参戦となった。ちなみに、PC1から始まるペンスキーのF1マシンを手掛けたのはジェフ・フェリス。後にロータスやブラバムでもF1マシンやF5000マシンも手掛けている。
一方、VPJ4から始まるパーネリのF1マシンを設計したのはロータスでタイプ49やタイプ72などの傑作マシンを手掛けたモーリス・フィリップだ。
日本とも関係が深いドン・ニコルズが立ち上げた「シャドウ」
1975 Shadow DN5・Ford-Cosworth DFV
1976 Shadow DN5B・Ford-Cosworth DFV
1977 Shadow DN8・Ford-Cosworth DFV
ローラやイーグルで修業を積んだトニー・サウスゲートが、初めて主任設計者として手掛けたマシンは1970年に登場したBRMのタイプP153だった。そのP153が、デビューシーズンの、まだシリーズ序盤だったベルギーGPで優勝を飾ったことで、サウスゲートへの高い評価が定着することになる。
そして新たにチームを立ち上げたドン・ニコルスに請われてシャドウへ移籍、最初に手掛けたF1マシンが73年シーズン用のタイプDN1。BRMでデザインしたP153がV12エンジンを搭載していたのに対して、新たにデザインしたDN1はF1キットカーたるパッケージでV8のコスワースDFVを搭載していたから、設計的には随分楽になったはず。だがじつは、V8固有の振動に悩まされていた、とも伝えられている。
ともかく、デビューシーズンに2度の表彰台を獲得。翌74年に投入したDN3もエースのジャン-ピエール・ジャリエがモナコで3位入賞を果たすなど、新参チームとしてはまずまずの2シーズンを送ったのち、3年目の飛躍を期待されてデビューしたモデルがDN5だった。
引き続きサウスゲートがデザインを担当。ラジエターをモノコック後方の両サイドに置き、フロントにオイルクーラーをマウントして「鑿(ノミ)ノーズ」と呼ばれた低く前端の尖ったノーズコーンでカバーする手法はDN3からそのまま踏襲されている。
デビューレースとなった開幕戦のアルゼンチンGPと、第2戦のブラジルGPで、エースのジャリエが2戦連続ポールを奪って速さをアピールしたが、ともにトラブルで結果を残せず。モナコGPではトム・プライス-ジャリエの順に予選2-3位につけるが、今度は2台ともにアクシデントでリタイヤ。
結局、オーストリアGPでジャリエが3位入賞(ただし赤旗によるレース短縮でポイントは半分の2ポイント)がベストリザルト。シューズン終盤にはマトラ製V12エンジンを搭載したDN7も発表されたが、こちらは熟成が進まずお蔵入り。
翌76年も、アップデート版のDN5Bで戦うことを余儀なくされてしまった。その76年シーズンの終盤には後継モデルのDN8が登場している。ロータスに移籍したサウスゲートの「置き土産」をデイブ・ウォスが仕上げたモデルで、サイドラジエターと「鑿(ノミ)ノーズ」を引き続いて採用しているが、再度ラジエターのマウント方向を変えるなど、トライ&エラーが続くことになる。
また77年シーズンにはエースを務めるプライスが南アフリカGPで事故死するなど不運も重なり、好結果を残せないままシーズンを終えることになる。
#16Tは75年、イギリスGP後にシルバーストンで行われたテストでの様子。#17は76年に富士スピードウェイで開催されたF1世界選手権inジャパンにおけるジャリエの、予選日の走行シーン。#16は翌77年に、やはり富士で行われた日本GPにおけるリカルド・パトレーゼの走り(富士スピードウェイ・広報部提供)。
アメリカの名門「ペンスキー」
1975 March 751・Ford-Cosworth DFV
1976 Penske PC4・Ford-Cosworth DFV
インディカーやCan-Am、そしてNASCARなど多くのアメリカンレースで活躍。とくにインディカーでは現在も、チップ・ガナッシとともに2強とされる名門チームのペンスキーがF1GPに初めて挑戦したのは74年のカナダGPだった。主戦マシンとなったPC1は、ブラバムでBT38やBT40(F2)やBT41(F3)などのミドルフォーミュラを手掛けてきたジェフ・フェリスがデザイン。
直線的なラインを多用したシャープなボディはBT40/BT41にも似ていると評判だった。ただしテストドライバーをも務めたベテランのマーク・ダナヒューをもってしても、熟成は容易には進まず、翌75年シーズン中盤には市販F1マシンのマーチ751を購入。
実戦参加しながらF1マシンを「学習」する作戦を執ることになった。軌道に乗り始めたところでダナヒューが事故死するアクシデントもあったが、同年最終戦のアメリカGPで新たなエースとなったジョン・ワトソンとともに、オリジナルの新型マシンをお披露目している。
これがPC3で、予想通りというかマーチによく似たデザインで仕上げられていた。そして翌76年の第7戦スウェーデンGPで、よりオリジナリティを高めたPC4が登場する。デビューレースこそスロットル系のトラブルからアクシデントに見舞われ0周リタイヤとなったが、続くフランスGPとイギリスGPでは連続して3位入賞。
そして1戦置いた第11戦のオーストリアGP。先代のエース、マーク・ダナヒューのちょうど一周忌となるメモリアルレースでトップチェッカー。PC4にとってはもちろんだが、チームにとってもドライバーのワトソン自身にとっても嬉しい初優勝だった。
モノクロ写真は75年のオーストリアGP。雨中の予選でマーチ751をコントロールするダナヒューの走り。カラー写真は76年10月に富士スピードウェイで開催されたF1世界選手権inジャパンにおけるワトソンの走り(富士スピードウェイ・広報部提供)。
レジェンドドライバーが興した「ヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシング」
1975 Parnelli VPJ4・Ford-Cosworth DFV
ペンスキーがF1GPにデビューを果たした74年のカナダGPでは、奇しくももう1チーム、ペンスキーと同じくアメリカからF1GPにデビューを果たしたチームがあった。それがヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシング。名前からも分かるようにインディ500マイルの優勝経験を持ったレジェンド・ドライバー、パーネリ・ジョーンズが興したレーシングチーム。主戦マシンとなるVPJ4をデザインしたのは、元ロータスのデザイナーで傑作マシンと評価の高いタイプ49やタイプ72などを手掛けていたモーリス・フィリップだ。
72年にロータスから移籍してきたフィリップは、72年にはチームにとって初めてのオリジナルマシン、インディカーのパーネリVPJ1をデザイン。これはもちろん彼にとっても初のインディカーだった。このニューマシンでアル・アンサーがインディ500マイル2位入賞を果たし、ジョー・レオナードが前年に次ぐUSACシリーズチャンピオンに輝いたことで、フィリップの評価はさらに高まりパーネリのF1プロジェクトは一層加速していくことになった。
そして、前述したように74年のカナダGPにデビュー。ドライバーはマリオ・アンドレッティだった。デビュー戦では入賞一歩手前の7位完走を果たし、同時デビューのペンスキーに先んじた格好だったが、翌75年シーズンも簡単には「その上」には至らず。第7戦・スウェーデンGPにおける4位入賞がシーズンのベストリザルトとなった。翌76年シーズンにはタイトルスポンサーだったバイスロイ煙草が離脱。
それでもマシンをアップデートしたVP4Jを投入したが、第2戦の南アフリカGP(6位入賞)と第3戦のアメリカ西GPに出走したものの、そこでF1GPの舞台から去ることになった。写真は75年のオーストリアGP。予選時のアンドレッティ。