航空機のエンジニアたちが開発を担当
それもそのハズで、開発責任者は長谷川龍雄氏(初代カローラも担当)は、東大航空学科を卒業し、戦時中は航空機の設計をしていた人物。デザイン担当の佐藤章蔵氏も航空機や潜水艦の設計をしており、両者ともに空力や軽量化などの知識に長けていた。それゆえ、パブリカスポーツが超流線形を採用したのは当然の結果だったのだ。
ただ、スライド式のキャノピーは使いにくく、当時に盛り上がっていたレースの規定には「ドアがあること」というものがあり、結局市販車では通常のドアが採用されている。またせめてもの抵抗というわけではないだろうが、ルーフは脱着式のいわゆるタルガトップとしているのも注目である。ちなみに世界的に見ても先駆けとなる採用だ。
重量面では、当時先進的だったアルミパネルをルーフやトランクに採用することで軽量化を進め、最終的に580kgを達成。
エンジンはパブリカのままでは非力なので、幾たびか試作が重ねられ、790ccにまで拡大しつつ、ツインキャブ化。スペック的には45馬力/3.5kg-mとした。数値だけ見れば非力に思えるが、空力のよさと軽量ボディのおかげで最高速度は155km/hにも達している。
たとえば同じ年に登場したブルーバード1600SSSの最高速度が160km/hだったことを考えると、驚異的なスピードだったことがわかるだろう。
このトヨタスポーツ800、通称ヨタハチは、同時代の先進的スポーツの雄、トヨタ2000GTの弟分として扱われることもあるが、じつは逆。トヨタ2000GTが発売されたのは1967年のことだから、ヨタハチのほうが2歳も年上なのだ。どちらも1960年代を代表する名車であることには変わりないが、その中身もまったく異なる2台である。