【1度は行きたいドライブスポット】 長崎・佐世保編 (4/5ページ)

「新高山登レ一二〇八」を発信したと言われる巨大な3本の柱!

 今でこそ、鉄筋コンクリート造は一般的な建築工法だが、明治時代後期となると、まだレンガ造が主流で、コンクリートは最新の技術であった。

hario_001この大正11年に完成した佐世保の旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設は、鉄筋コンクリート造で高さ136mにもなる塔である。佐世保市南部の針尾島にあるこの塔は、日本海軍が建設した長波無線通信施設で、三つの無線塔は一辺300mの正三角形の形に配置されており、その中心に半地下式の電信室(通信局舎)がある。もちろんこの3基は、現存する日本最大の通信塔で、国の重要文化財(2013年3月6日指定)である。

hario_003この針尾島は、岩盤が九州で1-2を争うほど強固であることや、周囲に高い山がないこと、さらにこの敷地内に民家が4軒しかなかったことなどの理由で、4年の歳月をかけて建設された。日本海軍が船橋(千葉県)、鳳山(台湾)とともに作り上げた無線施設の一つである。深さ約6m、直径約24mの基礎の上に建てられている。塔の直径は12m(地上部)から3m(頂上部)。そのコンクリートの厚さは同じく80cmから23cmとなっている。

 内部に入って上を見上げるとわかるが、塔内は空洞となっている。ほぼ同じ塔が3つ建造され、塔の最上部には、18mの正三角形のカンザシと呼ばれた重さ9トンにもなる鉄骨が付属していた(現在は撤去されている)。さらにアンテナ線で中央に建てられ電信室につながっていた。

 当時、遠距離無線通信に使われていたのが長波。周波数30~300キロヘルツの電波で、電離層への反射を利用することで遠距離まで届くのだが、そのために特別に大きいアンテナが必要だったという。主に中国大陸、東南アジア、南太平洋方面に展開する海軍部隊との連絡に使用された。しかし、太平洋戦争時には無線の主流が中波・短波に変わっていったこともあり活躍の機会は減っていったという。

 戦後は佐世保海上保安部がこれを使用し、海上自衛隊も発足当時からこれを共同利用という形で使用していた。現在は無線塔としての役割は終えている。無線塔、電信室ともに現存する国内唯一の施設ということになる。

 無線塔をよく見るとわかるが、コンクリート打放し仕上げだが、その型枠の跡がよくわかる。これが100段あるという。当時のこの地は陸続きとはなっておらず、このコンクリートの材料はすべて船で運搬しこの高台までトロッコで運び上げたという。これに使われた砂や玉砂利などは丁寧に洗われて使われるなど、非常に丁寧な仕上げとなっているようで、剥離やクラックのようなものはほとんど見られず、100年近く経っていることを感じさせない。まだ100年は大丈夫ではないかともいわれているという。

 真珠湾攻撃開始を伝える暗号電文「新高山登レ一二〇八」を中国大陸や南太平洋に展開する部隊に伝えられたと言われているが、それを示す資料は残っていない。

hariodon近くでは、穴子天3本で針尾電波塔をイメージした針尾丼(みそ汁付き/980円)も食すことができる(一魚一会/佐世保市針尾東町)。


新着情報