5年で4度のタイトルと獲得した栄光の312T
1975 Ferrari 312T・Tipo 015 2992cc Flat12
1976 Ferrari 312T2・Tipo 015 FSW76-35
パワーはある(ただし実際にはライバルが恐れおののいた程ではなかったとする説も)ものの大きく重いV12エンジンのためにハンドリングに問題を抱えていた312Bの後継モデルとして1975年に登場したモデルが312T。
312は従来どおり3リッターのV12エンジンを搭載していたことによる命名で、末尾のTはTrasversale(トラスベルサーレ:イタリア語で横置きの意)、つまり横置きミッションをデフの前方、エンジンとの間にマウントしたもので、これによって重量配分が随分適正化され、ハンドリングもニュートラルになった、と伝えられている。
シリーズ第3戦の南アフリカGPでデビューした312Tは、3レース目となった第5戦のモナコGPでニキ・ラウダが初優勝を飾ると、その勢いを持続したままベルギー、スウェーデンと3連勝。オランダでの2位を挟んでフランスでも4勝目を飾り、シーズン終盤のイタリアではクレイ・レガッツォーニが優勝。
続くシリーズ最終戦のアメリカGPではラウダが5勝目を挙げてドライバーチャンピオンに輝くとともに、フェラーリ自身も1964年以来のコンストラクターチャンピオンに輝いている。
翌76年にはレギュレーション変更によって背の高いインダクションボックスが禁止されることになったが、312Tはコクピット左右前方に設けたNACAダクトからインテークを導くという大胆な発想でアップデート。
開幕戦から快調に飛ばしたラウダが、イギリスまでの9戦で5勝、2位2回、3位1回という韋駄天ぶりでシリーズをリードした。しかし第10戦のドイツGPでアクシデントから瀕死の大火傷を負って数戦をパス。イタリアGPでカムバックし4位入賞。アメリカでも3位入賞を果たしたがジェームス・ハントが6勝を挙げて猛追。
最終戦となった日本GP……イベント名称はF1世界選手権inジャパンで荒天のなか、コンディションが悪すぎる! と非難の意味も込めてレースを棄権したラウダに対し、果敢に戦って2位を得たハントが逆転。ラウダは連続タイトルを逃してしまった。しかしフェラーリは2年連続でコンストラクターチャンピオンに輝いている。
#2号車は75年スペックの312T(本来的にはラウダは#12、レガッツォーニが#11を装着していた)で、グッドウッドのGPコレクションで撮影。チャンピオンナンバーの眩しい#1は76年スペックの312T2(富士スピードウェイ・広報部提供)。ドライのようだから富士での予選日か?
矢尽き刀折れてしまった312Tの終焉
1980 Ferrari 312T5・Tipo 015 3000cc Flat12
312Tが1975年にデビューして以来、75~77年と3連覇した後78年のシリーズ2位を挟んで、79年にもコンストラクターズチャンピオンに輝き、しかも75年と77年、79年はドライバーとのダブルタイトルという、まさに我が世の春を謳歌していたフェラーリ。もちろん312Tは毎年のようにアップデートを重ねていった。
まず76年シーズンの第4戦・スペインGPで312T2がデビューし、78年にはT3へとアップデート。さらに79年シーズンに向けてはボディデザインを一新した312T4が登場、グランド・エフェクト効果を考慮した、いわゆるウイングカーに生まれ変わっている。そして80年にはシリーズの集大成となる312T5がデビューしている。
もちろんアップデートを重ねるたびにポテンシャルは引き上げられてはいるものの、レースはやはり相手のある勝負事。ライバルのほうがよりパフォーマンスが引き上げられていたなら、決して勝つことはできないのは当然である。80年の312T5はまさにそれ。
結局このシーズンは、1973年以来となる未勝利に終わり、312T5には失敗作のレッテルが張られることになってしまう。そして翌81年には1.5リッターのV6ターボを搭載した126Cシリーズへと置き換えられることになる。
マルティニ・カラーのロータスと並んだ個体はドニントンのGPコレクションで撮影。一方、メインカウルを外した#2号車は、イタリアの国立自動車博物館で2013年の年末に撮影。