F1ターボエンジンが禁止され、再びコスワースの時代が到来!
ルノーを筆頭とするターボパワーに対抗するために、コスワース陣営はDFVに更なるチューニングを施すことになった。ショートストロークに設計変更、極限まで性能向上を追求したDFYは、その好例だが、やはりターボパワーの勢いを止めることは叶わなかった。
1987年にはNAエンジンの排気量が3.5リッターまで引き上げられ、これに対応してDFVの排気量を拡大したDFZやDFRでは形勢を逆転するには至らなかった。だが、1989年にテクニカルレギュレーションが変更されターボが禁止されると再びコスワースにも出番がやって来る。そこで新世代のHBエンジンがリリースされるのだが、今回はDFRからHBが登場するまでのマシン4台を紹介しよう。
1989 Benetton B188・Ford DFR 後継の出遅れで1.5シーズンに渡って参戦
ティレルやアルファ・ロメオのスポンサーとしてF1GPに参入してきたベネトンは、1985年シーズン限りで活動休止することになったトールマンを買収、新たにベネトン・フォーミュラの名で翌86年からレーシングチーム/コンストラクターとしての活動を開始した。
参戦初年度はBMWターボ、翌年はフォードのV6ターボ、と様々なエンジンをトライしたが、88年からはフォード・コスワースのDFRを選択。結果的にフォード・コスワースとワークス契約を結ぶことになり90年代のジャンプアップに繋がることになった。ただし89年シーズンは、思わぬ苦戦。実は予定していたコスワースのニューエンジン、HBの完成が遅れ、B188・DFR…前年に使用していたマシンそのものを前半戦で使用せざるを得なかったのだ。それでも着実に走ってポイントを重ねており、これがランキング4位に繋がった。ドイツはホッケンハイム・サーキットに併設のモータースポーツ博物館で撮影。
1990 Tyrrell 019・Ford DFR ハイノーズのトレンドを創出
旧くはマトラ・インターナショナルを名乗っていたころからフォードとの良好な関係を築いてきたティレルは、1985年の014と翌86年の015でルノーのターボ・エンジンを使用したものの、87年のDG016では再びフォードユーザーとなりコスワースDFZを搭載している。
そして89年からはコスワースDFRの供給を受けるようになったが、90年にリリースした019ではF1史上に残る技術を披露している。それは空力を担当したジャン-クロード・ミショーのアイデアを具現化したハイノーズ+アンヘドラル・ウィング。翌年以降、多くのチームがティレルに倣いハイノーズを採用することになった。2015年の鈴鹿モータースポーツファン感謝デーで撮影。
1990 Monteverdi/Onix ORE1B・Ford DFR?オーナーが交代してチーム名も変更、苦難のシーズンに
1987年に国際F3000でステファノ・モデナを擁してタイトルを獲得、89年シーズンからF1GPにステップアップを果たした新興チームがオニクス・グランプリ。アラン・ジェンキンソンが手掛けたORE1は手堅い仕上がりを見せポルトガルではステファン・ヨハンソンが3位表彰台を獲得、コンストラクターランキングでも新興チーム最上位の10位につけている。翌90年は予備予選も免除され、改良版のORE1Bでシーズンに臨んだが、タイトルスポンサーのマネートロンが去り経済的な苦境に立たされてしまった。代わってスイスの高級車メーカー、モンテベルディの創業者がスポンサーとなったが、結局、90年シーズン終盤にはチーム活動を終えてしまうことになった。スイスは独仏国境に近いバーゼル近郊、ムッテンツにあるパンテオン・バーゼルで2010年に撮影。
1991 Jordan 191・Ford HB?,? HBエンジンによってコンストラクターに名乗り
ジャン・アレジを擁して1989年に国際F3000でタイトルを獲得したエディ・ジョーダン・レーシングはジョーダンGPとして91年にF1GPにステップアップを果たしている。チームにとって初のF1マシンは、元レイナードにいたゲイリー・アンダーソンが手掛けたもので、アンヘドラル・ウィングをより発展させたトーショナル・ウイングを採用するなどトレンディだが手堅い仕上がりを見せていた。一方、これはチームのボス、エディ・ジョーダンのネゴシエーションによるものか(?)ルーキーチームにもかかわらず、カスタマー用DFRではなく、ワークス仕様のHB…ベネトンの“型落ち”だったが…を手に入れていたこともあり、ルーキーチームらしからぬパフォーマンスを見せている。写真はドイツ北部、ハンブルグにあるプロトタイプ・コレクションに展示されていたものでミハエル・シューマッハがF1GPにデビューした91年のベルギーGPで使用した個体そのものだ。